なぜボクたちは笑うのか

pikarrr2006-04-04

①なぜ「人間」は笑うのか


恐怖は個人的、笑いは集団的


恐怖と笑いは、同じ体験です。その違いは、いわば恐怖が個人的なものであるのに対して、笑いは集団的なものである、ということです。笑いはかならず他者への「同意」としてある、と思います。恐怖は集団戦でも個人として体験する。笑いは回りに誰もいなくても、「集団」として体験する。ということです。ポイントは「他者への同意」です。さらにいえば、笑いはアイロニーです。直接、体験するのではなく、体験を他者の目でみなおすというところに現れます。

フロイトの機知論は言語論でもあるのは、笑いは恐怖のような(個人的)身体的な体験でなく、人間のみがもつ高等な社会性を円滑に運営するためのもの、「言語」を解した、社会性(象徴界)として体験だからです。だから笑いはある集団への帰属していないと、笑えないということがが多々あります。ボクも少し前、アンガールズの何が面白いのかわからず、悩みました(笑)みんなが笑っているのに笑えないと、疎外感を味わいますね。

たまに子供にTVを見せないという教育熱心な親がいますが、学校での「話題」に乗れずに疎外を味わうでしょう。この「話題」とは情報であり、知っている、知っていないですが、それだけでなく、いまみなが共有しているアイロニーの距離感」、どの程度のメタさが今面白いのか、ということでもあります。それは、「空気」を読むことができないことであり、いじめられたりするのではないでしょうか。




「同意」の笑い


綾小路きみまろの笑いは一歩間違えば、高齢者蔑視でヤバイですね。現に毒舌過ぎて、受け入れられなかった時代もあったと聞きます。笑いは、絶えず非難されることとスレスレのところにあります。そこには必ず、これは笑うモノだというみなの「受け入れ」「同意」が必要です。そしてそれに「同意」できない人々もいます。だから新しい笑いは、いつも大人には笑えない醜悪なものからはじまりますね。HGもよくみなの「同意」を得たものです。

綾小路きみまろが、人間の情を無くさないまま酷いことをいっているか、酷いことを言い過ぎてるかは主観であり、その主観は、その集団の同意(フロイト的無意識=象徴界)によって決まるわけです。少し時代が違うと、毒舌過ぎて笑えないことは十分にありえます。だから、なぜいまその「ギャップ」が面白いとみなに同意されているのかは、誰にもわからないでしょう。いわばクオリアと同じで、その起源にはさかのぼれません。




抑圧と緩和


「あとになれば笑い話になる」と言いますが、恐怖、苦痛の体験も、後に友達などとの会話で笑い話にします。これは、それぐらいに体験が客観的に見られる(他者の目でみなおせる)ようになったということですが、また積極的に、客観的に見ようする行為である、といえます。無意識に抑圧されていたものが、「他者との同意」によって、緩和する行為です。人は自分の失敗談を誰かに話して、笑い話にすること、それを笑いとして同意してもらうことで、内部に溜まり続けている緊張を緩和することがあります。

これを逆にいうと、いま人々がなにを面白いと思うかは、今人々が潜在的になにをストレスに感じているか、恐怖を感じているか、と大きく関係していると考えら得ます。きみまろが年輩の人たちに受けるのは、先ほど指摘のように「高齢者の方が死や老いの恐怖を身近に感じて」おり、その恐怖を積極的に笑うことで、緩和する役目があると考えら得ます。

たとえばなぜアンガールズが受けるのか。アンガールズの典型的なコント設定に、教える人と教わる人の規律の関係のはずが、教わる人が教える人を舐めているだけでなく、教える人もそれを受け入れている「友達のようななれ合いの関係」である、ということがあります。

これを反転させると、アンガールズを笑う人の「恐怖」は、「友達のようななれ合いの関係」であるのかもしれません。特にアンガールズは女子高生などの若い女性から人気が出ましたが、彼女たちの「友達のようななれ合いの関係」に潜む、本当は分かりあっていないのでは、という恐怖かもしれません。アンガールズが見せているのは日常に潜む「薄氷のコミュニケーション」という狂気であり、それを緩和するように笑うのかしれません。




②笑いの二大効果


笑いの精神分析的効果


子供はなぜ下ネタずきか。下ネタが社会的に禁止(抑圧)されているのを(無意識に)知っている。すなわちすでに抑圧されたストレス下にあり、解放されるからですね。内部抑圧解放としての笑い。抑圧を言語化し治癒する精神分析的です。

主体とはそもそも抑圧、疎外としてあります。言語をインストールされることそのものが外部からの異物の混入であるわけです。これは精神分析的には去勢などと呼ばれ、「立派な」社会人になるための過程です。この内部の緊張を緩和する効果として笑いがあるといえます。それは言語化という外部への提示として行われる精神分析的な行為ですが、抑圧の深さから過激な毒舌が求められたりします。




笑いの原コミュニケーション


このように笑いは一つには抑圧された恐怖を現前化して緩和する精神分析的効果です。二つ目には人間の、他者との同意形成手段、コミュニケーション内部の手段です。

笑いはあたかも生理反応のように身体反応をともないます。しかし本能的なのに動物は笑わない。それは擬似的生理現象ともいえます。動物と人間の境界、身体と言語の境界にある。動物は笑わなくても、人間では生まれたばかりの赤ちゃんから笑います。

赤ちゃんの笑いの意味を考えるときに、「喜び」「笑い」の差はなにかということがあります。動物は喜ぶが動物は笑わない。すると赤ちゃんは喜んでいるのか、笑っているのか。ボクの考えとしては、赤ちゃんは喜んでいるのであって、「笑って」いるのではない、ということです。

赤ちゃんは喜んぶときに、顔が笑顔になり、笑い声を上げる。このような人間にそなわる身体構造として「笑い」の表象というものが可能になる。あるいは生物学的には無力な赤ちゃんは生きていくために懸命に「笑う」という表象によって、「他者」であることをアピールする戦略を持っている、ということになるでしょう。

たとえばラカン鏡像段階は、「他者」へと自分の全体像を投影するのですが、何故にそれが「他者」なのか、と考えると、そこには赤ちゃんの「笑顔」があり、笑顔に笑顔で答える「他者」がいるという構造、原的なコミュニケーションの成立によって可能になっていると、考えることもできます。




笑いの前言語性


「いないいないばー」はまさに他者の消失、出現です。まさにここに「人間にそなわる身体構造として「笑い」の表象」という反射的なものが見いだせます。そしてそれが、フロイト「フォー・ダー」では、現実の母(他者)の消失の際限であり、それを象徴化することで、母の消失の苦痛を解消すると言われます。ここでは、「いないいないばー」の他者出現の反射から、自己的な他者出現の操作が行われている。すなわち他者への「笑顔」「私は他者だ」という生物的反射から、象徴的な行為へ移行があります。そしてこのような生物学的、身体構造的な「笑い」の表象は言語以前にある、あるいは笑いにより言語が始まるという前言語的なものと言えるかもしれません。

「赤ちゃんも笑う」のではなく、赤ちゃんの動物的な”喜悦”を、大人が勝手に”人間的な笑い”として解釈する」。すなわちそのような(錯覚的な)解釈可能性によって、想像関係、そして原-象徴関係が可能になっていく、ということではないでしょうか。そしてこの赤ちゃんの「笑顔」が導きとなり、「客観的な価値観」としての「お笑い的笑い」関係という象徴界への参入していくということです。

たとえば未知の高等生物と遭遇したとき人は笑うでしょう、笑顔をみせる。それへの返答でコミュニケーション可能性をはかり、「他者」であるか調べ、内部の形成を試みるのです。他者が他者であるのか以前の「断絶」という狂気の緩和として、そしてコミュニケーションに先立つコミュニケーションとして、身体として「笑顔」があります。

そしてこの笑いの前言語性が、精神分析的効果を生んでいる。心身を繋ぎ、身体近傍へ抑圧されたものを表象し、言語化し治癒するということです。




精神分析的なもの」としての「無垢への欲望」


精神分析から精神分析的なものへ


たとえば、フロイト夢分析から始めたのは、抑圧され心の憶測に眠っている「無意識の言葉」がそこで聞けるからですね。その他にも、言い間違い、機知などに「無意識の言葉」が見出す。その言葉を聞き、意味を読み、そして現前におくことによって、他者に承認されることで、抑圧は解消されるということが、精神分析の目指すところです。

夢分析の場合は、夢を見たこと、そのものが抑圧されたものでは、ありません。夢そのものの意味の向こうに「無意気の言葉」があります。人はいかに語ろうとも「無意識の言葉」を語ることはできません。懸命に真実を語ろうとする向こうに「無意識の言葉」はあり、すれ違い続ける、ということです。それでもまず夢見たこと、言いたいこと意味がなくとも語ること、自由な連想をもとに語ることから精神分析ははじまります。

しかし最近、かつての精神分析にかかったような症状、たとえば抑圧されたものがけいれん、意識不明などの身体反応として現れるヒステリー症などの「ベタ」な患者はなくなってきています。かわりに薄く広く神経症が蔓延している、といわれます。

現代の価値が多様化した情報化社会においては、強い抑圧というものが、働かなくなってきているといえます。たとえば親の言葉が絶対であり、その不条理に神経がまいるより、親の言葉を疑い、反抗し、抵抗する。その葛藤はなくなることはないでしょうか、強烈な衝撃としてでなく、持続的なストレスとしてかかる。親の不条理にフリーズする前に、様々な価値のもとにそれを回避し続ける、逃げることはできなくても、というようなことです。

すなわち、日常で精神分析的なもの」が作動している、「無意識の言葉」が解放しようとすることが様々に行われているだろうということです。簡単に言えば、ストレス発散方法ということです。これは、本来の精神分析の方法ではありませんが、抑圧を解放するという意味で、精神分析的なもの」、ということです。




精神分析的なもの」としての「無垢への欲望」


たとえばボクの例でいくと、お風呂に入るとある種のトランス状態に入ります。血行が良くなるからでしょうが、様々な思考が駆けめぐりますね。良く言えば、アイデアが生まれるみたいなことがあります。お酒を飲むという人の多いのではないでしょうか。これは精神分析的ですね。意識を弱めて、饒舌になると、様々なことがどんどん口から出てきます。

ショッピングもストレス発散になります。買うことそのものが快感で、その後使わないということもあります。ボクも本を買うことが好きですね。たまってすぐに読めなくても、ついつい買ってしまいます。テレビを見ると言うこともストレス発散になるでしょう。最近のお笑いブームの消費の早さにも現れています。ボクはこのような趣向の変化の早さを、「マイフェイバリットからマイブーム」と呼び、そして移り変わる欲望の新たなモノを「無垢」と呼びました。

これらは、不安に対する防衛機制であって、フロイト的には「置き換え」に対応するかもしれません。抑圧されたものは、つぎつぎに「置き換え」て、抑圧されたものそのものを体験することを回避し続ける。その中で、不安は解消していく。ラカン的には、現実界との直接対面をさけて、現実界を縁取った対象aという幻想を欲望しつづける。

すなわち狂気に縁取られた幻想を「笑う」のです。それは、超自我象徴界)によって禁止されたものです。狂気は、超自我象徴界)の破れとしてあり、超自我象徴界)がなければ、狂気もない。すなわち「フォ〜」「残念!」などなど、それは「無垢」な幻想として現れます。そして超自我象徴界)に承認され、もはや笑われなくなり、「無垢」は消失します。そして次に「置き換え」られ、新たな「無垢」は現れます。そして抑圧されてものは、回避され続けるのです。

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