なぜ悩みは自己内部へ向かうのか

pikarrr2006-04-10

内部へ抑圧


障害に直面したときに、対応は内部と外部があります。外部は環境を変えるということであり、内面は自分を変えるということです。

たとえば子供は環境の悪さを外部を俯瞰する視線を持たない故に、内部の変化へ向かいます。親が離婚するのは、ボクが悪からだと考えます。それは外部から見ると、過剰な思いだが、抑圧を内部へしか解消できません。多くにおいて人が大きな障害にあたると、この子供のような思考へ向かいます。外部へ向かうことができないからです。そもそも自己は不完全なものでしかないという後ろめたさがあるためです。

外部をコントロールするためには、外部を内部へ取り込むというメタ視線が求められます。本質的に内部にいるボクたちがそれを外部から俯瞰する目線を見出すことは困難であり、多くにおいて人は内部へ没入し生きています。




外部とはあることがわからない外部である


人間内部の力動は、内部へ解消されるか、外部へ解消されるかです。これは社会的な動向にもいえます。たとえばある技術革新が起こるとそれをもとにパラダイムシフトがおこり、世界に一気に広まっていきます。力動的なエネルギーが内部から外部へ転換したということです。それまで行き場を失い内部へ閉塞した力は、向かうべき外部を見出し一気に解放されます。

これはいわば、「問い」がありそれにぶち当たるか、あきらめるかではなく、そもそも「問い」があることに気がつかないことと、「問い」がなにか明らかになることです。向かうべき外部に気づかない故に内部に没入する、ということです。




外部は「発明」される


しかしここで考えなければならないのは、外部とはなにか、ということです。外部とは、内部からみることによって現れる内部の一部であるということです。それが内部の閉塞を破る新たな出口であるのは、以前からあった外部への出口を見つけたという「発見」ではなく、内部がそれを出口として認めるという「発明」である、ということです。内部が閉塞し、外部が求められるときにはじめて、出口は出口として、あらわれるのです。

たとえば相対性理論は発見されたのでなく、その時代によって発明されたのです。そしてその出口は、古典力学の閉塞という背景によって、現れた出口です。そしてその出口は欲望によって作られたのです。天才とは「神よって」そのような発明を「発見」する任を授かったものです。享楽の出口を見出し、人々を導く者です。

両親が離婚したことはボクが悪からだと自閉した子供が出口を見出すのは、出口を「発見」するのではく、出口を「発明」する必要があります。しかしその「発明」には自分の力だけでなく、「神の導き」が必要だということです。