なぜ若者は怒らずにキレるのか?  「場」の拘束と解放 その1

pikarrr2006-04-12

薄氷の共犯関係

「若者よ怒れ」 

平野さんは学生運動の元闘士。出版社時代に労働争議で指名解雇された後の76年、新宿ロフトを開店した。「わかってたまるか」社会への怒りをぶつける若者の姿勢と音楽にほれ込んだ。82年、店を仲間に託し、海外放浪の旅に出る。10年後に帰国したとき、ロックは業界に取り込まれ、メジャー志向のバンドが増えていた。若者の話しぶりにも異変を感じた。いつも「君の気持ちもわかるよ」から始まり、「ま、いいか」で終わる。「わかってたまるか」と、ぶつかってこそ得られる絆。それを知ってもらおうと、95年にロフトプラスワンを作った。右翼、左翼、AV監督、オタク、格闘家らが出演し、客と討論するトークのライブハウスだ。・・・

あらがいようのない時代の流れ。だが、平野さんは違和感を覚える。「何でも受容する懐の深さが新宿のよさだったのに」髪の毛を逆立てたロック少年が警官に職務質問され、かばんを開けられているのを見かけた。「違法行為を取り締まるだけでなく、異質なものを排除しているように見える。それなのに、なぜ彼は怒らないのか」・・・「自由を制限され、格差社会下流にいて何で怒んないの?社会を斜めに見る反逆精神が若者の特権じゃないの?」それが、新宿で生きてきた平野さんのいまの「怒り」だ。

http://www.asahi.com/life/update/0411/005.html

最近の若者はキレると言われる、しかしここでは怒らないと言っている。この違いはなんだろう。ここで言われる「怒る」とは、主張する、対峙する、交渉する、闘うということ。自分たちの「正義」信じ、主張する、ということだ。だから怒るとは理性的である。だから「なぜ若者は怒らないのか?」に対してポストモダン的には、怒るための「正義」が消失しているということができる。様々な正義があり、様々な正義に「寛容」である。

たとえば警官がいうことが「正しい」とは思っていない。警官が「正義」を述べるとき、警官には警官の「正義」があり、それは絶対ではない、ということを警官自身もしっているが、警官という立場上、警官であるときには警官の正義を述べるのだ。ということを、僕も警官も知っている。そのようなメタのコミュニケーションがあり、分かりあったフリをする。

これは、場(空気)を共に作っているということ、すでにそこでは共犯関係にあるということであり、そのことを最低限、知っているということだ。再度言えば、ポストモダン的にはそれは逆説的だ。場はすでに壊れている。だからこそ場があるように振る舞う。現代の場とはそのような場である。儀礼的無関心のような繕う場である。それは、場などなく、みなが不安であり、ボクたちはとても繊細な場を綱渡りしているということだ。

「寛容」とは、あなたには干渉しないから、僕にも干渉しないでくれという、不寛容の形態である。お互いの立場を尊重し、その場を演じきろう、ということだ。




怒れずにキレる


かつての若者は怒っていた、という。そこには主張すべき「正義」があった。「正義」に対する信頼があった。さらに言えば、「怒る」こと、その「正義」を主張することが一つの儀礼であった。ジェームス・ディーン的、ロックンロール的、マルクス主義的な「怒り方」があったといえる。そのように振る舞うことが、若者であった。しかしそのような「怒り方」は消費され、使い込まれ、リアリティがなくなった。

そして、場はより繊細になった。分かりあえないことを知っている。僕のことはだれにもわかってもらえないことを知っている。だからコミュニケーションの場で、その場限りの場を繕う。繕うことに疲れ、コンビニ、ファーストフードなど他者回避する。そして引きこもる。オタクる。それでも、集まらなければならない場での不安は、誰かを生け贄に外部へ排除し(イジメ)、内部という場を繕う。

だからマジで「怒る」人は、このもろさがわからない、そのべたさ、天然は、頭が悪いのであり、排除され、笑われ、いじめられる。格好悪く、馬鹿で、排除されるのだ。だからボクたちは「怒らない」のだ。そして逆にいえば、怒ることはとてもハードルが高いのだ。怒りっぱなしでは、ダメであり、怒ることで壊した場を、いかに繕うか、あるいはそれに耐えるか、求められるのだ。だからボクたちは怒ることに尻込みし、めんどくさいのだ。

怒ることに尻込みしつづけた結果、抑えきれなくなったときに、もはや場も、「正義」も糞もなく、我を失い、ただただ感情的にキレるしかない。「怒る」のはコミュニケーションであるが、「キレる」はコミュニケーションの破壊であるということだ。




「怒り」へのあこがれ


このような意味で、ボクたちは「怒る」ことにあこがれる面がある。たとえば小泉圧勝選挙の前の、小泉の演説である。抵抗勢力に追い込まれ、それでも解散し、選挙という戦いを挑み、「私(の改革)は正しく、闘わなければならない」という怒れる小泉首相に国民は惹かれたのである。たとえば、麻原の魅力の「怒れる」点にあったのだ。正しさを一新に主張し「怒る」姿に、信者は引き込まれたのだ。

そこにある怒り方は、「場」壊すだけでなく、「場」を支配するということだ。小泉にも、麻原にも、嫌韓も、HGもある意味で滑稽である。滑稽に感じながら、空気を読もうと懸命であり、メタ地獄、懐疑し疲弊する日常の中で、その怒りの「場」に感染する「幸せ」である。そしてその「場」に感染するときにすでに共に怒っているのだ。抵抗勢力に、エイベックスに、日本という国に、韓国に、「怒る」のだ。
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