なぜエロいものを求めるのか

pikarrr2006-04-26

なぜ性倒錯対象は多様化するのか


「性的なもの」とはなんでしょうか。人間は年中いつでも発情し、「性的なもの」を求めています。社会ではこれを抑圧することを良しとします。でなければ、動物の発情期には命をもかけた戦いがあるように、まともに円滑な人間関係がいとなまれません。男は女を強く求めるように作られている、ということです。ここにあるのは本能です。

しかしそう簡単にはいかないようです。人間の性対象の多様性は動物の子孫を残すという純粋性では説明ができません。フロイトはこのような性倒錯を幼児性欲で説明しました。幼児の性欲は多様です。たとえば乳を飲む口唇、糞をする肛門、性器など、全身が性感帯です。見る快感、触る、触られる快感、しゃべる快感、聞く快感、しゃぶる快感、考える快感などなど。

このような性欲は、内的に発生するリビドーによる不快を性感体が刺激されることで、解消されることをもとめます。さらに幼児の母の乳を吸う快感とは単に口唇の性感帯を刺激するということではなく、至上の幸福感、母との一体感を全能感として体験されます。




性的快感の「空」としての「私」


しかし成長するにつれ、このような性倒錯対象は二重に疎外されます。一体感であった母が離脱するという他者の発生、さらには社会への参入によって、快感をもとめること性対象を求めることが禁止されます。

これはまた自我が作られる過程でもあります。他者の発生により切りはなされ、失われた性的快感の「空」として自我はうまれ、そしてその「空」を満たすことは社会に求められるが、それは決して満たされることがありません。「私」とはこのような「空」をうめようとする運動としてあります。

「空」を埋めることは決してできません。そこで性倒錯対象は「転倒」します。そこになにもないにも関わらず、禁止されているものを欲望する、さらにはみなが欲望するものを欲望するというように、社会において倒錯対象は多様にあらわれます。そしてこのような欲望は、「昇華」され、文化的、社会的活動へ向かう力にもなっています。




「身体的な自己保存」を犠牲にする「心的な自我保存」


ボクたちはどのような時に「生きる力」を発揮するのかと考えると、一番は生存のためでしょう。自己保存のため、フロイトは自己保存欲動は性欲動の一形態と考えました。内的に湧き上がる欲動は幼児的には自体愛的であり、自己保存的に働くと考えました。性欲動は単なる快感と言うことではなく、生存にも繋がる根源的な力ということです。

しかし自己保存というときには、身体の維持だけでなく「自我」を守るということがあります。たとえば不治の病で死期が近づいた人は、「私のことを覚えていて欲しい」と強く望むらしいです。あるいは多くの自殺者は名誉のために死を選びます。これは、「この私であり続けたい」ということ、「自我」保存とでも言うものです。すなわち「心的な自我保存」のために「身体的な自己保存」が犠牲にされることがおこります。

このような「心的な自我保存」の特徴は、「身体的な自己保存」が自己完結的であるのに対して、「心的な自我保存」は他者との関係、社会的な位置を必要とするということです。すなわちプライドとは社会性であり、他者との関係の維持です。

プライドのために死ねる。社会的な「私」という位置を保つこと、プライドを傷つけられることは、身体を傷つけられる以上につらいことです。愛憎も単に愛する人を失うことは身体への快感を与えてくれる人を失うというよりも、私の一部である「心的な自我保存」が失われることへ恐怖です。




リビドー解放の出口


ここで、「私」という失われた性的快感の「空」をうめる運動と、社会的な位置維持としてのプライドが繋がります。「私」という「空」は、社会的な位置維持(拘束、疎外)として現れ、そしてプライドによって保たれます。そしてこの「穴」はまた性的快感が解放される穴です。だから社会的に挫折し、プライドが傷つけられるということは、「リビドー解放の出口」が閉塞するということです。

この表現は違和感があるかもしれませんが、挫折、いじめなどで起こることは、自信をなくし、他者との関係を怖れるという精神的な抑圧であり、それは心的であってもまったくの身体的な苦痛です。これこそが「リビドー解放の出口」が閉ざされ、内的にリビドーが開放されない不快です。

だから「挫折した人たち」は、仲の良い他者とのまじわり、やさしさの中で癒されます。ここでは他者との新たな関係によって、「私」という「リビドー解放の出口」が再生され、閉塞が直ります。しかしそのような癒しの他者がいない場合、内的に閉じこめられたリビドーの解放をもとめて、禁止されたエロティックなものへ向かうのは偶然ではありません。

ストレス社会で、アイドル、ロリコン、二次元などが求められます。あるいはより過激には、電車などで痴漢をする、幼児へ悪戯するなどに向います。このようなエロいものは、本質的ではなくても、リビドーを解放する快感です。プライドを保つことがむずかしい社会ではこのような目先に刺激的なエロいものが求められます。




「性的なもの」はなぜエロいのか


「性的なもの」がなぜエロいのかは、禁止され人前で口に出してはならないが、なぜか過剰に欲してしまうからです。そしてこのような「発情」もまた隠すべきものであるから恥ずかしいのです。

もしかりに禁止がなくなりすべて許されたとしたら、欲望することが困難になり、「リビドー解放の出口」を失い、閉塞するでしょう。だからあえて小さくても禁止を作り出し、目先の性的な刺激を求めて、さ迷うのかもしれません。それは現代のボクたちに近いのかもしれません。