記事]なぜ若者は「下流」でなく「のま猫」に怒るのか 場の拘束と解放 その2

pikarrr2006-04-27

「空気を読む」ことの過剰とは薄氷化する場への恐怖


「空気を読む」というときの「空気」のメタファーが示すものは、「見えないがある」、ということであり、見えないものとは言葉である。「言葉として発せられなくてもそこにある言葉」である。たとえば「いいよ」というお世辞の裏に「いいかげんにしろよ」という意味があることを理解する、ということだ。

日本はハイコンテクスト社会と言われてきた。「言葉として発せられなくてもそこにある言葉」によって社会がなりたつ。外国人が日本人がわかりにくいのは、このような言葉を読むことが困難であるからだ。このように「言葉として発せられなくてもそこにある言葉」としてコミュニケーションを行ってきた日本社会において、それを支えるコンテクスト(文脈)の共有が困難になってきている。ハイコンテクストがくずれてきている。

それでも僕たちはハイコンテクストを前提とする曖昧にコミュニケーション手段しかもちえないときに、ボクたちは宙づり状態におかれる。「言葉として発せられなくてもそこにある言葉」が伝わらない。かといって、直接的に表現することは禁じられている。「空気を読む」を気にするという過剰は、このような、薄氷化する場への恐怖である。




空気が保たれているフリをしよう


「空気を読む」ことの過剰は、薄氷化の恐怖であるとともに、さらには、恐怖を回避するために「空気を読むことが困難になっている」という「空気」を読もう、ということだ。場に参加するなら、「空気を読むことが困難になっている」という「空気」を知っていることが求められる。だからたとえばただマジになること、感情をぶつけることなど、安易に「空気」を破るようなことは避けるべきである。絶えずアイロニカルに、引いた位置を保ちながら、場に参加することが求められる。

ベタに感情的になること、ただマジに場に介入することは「空気を読めない」もっともかっこ悪い姿勢であり、場を乱す者として嫌われて、排除される。現代的なカッコよさとして「クール」という価値観があるが、「クール」とはこのような引いた姿勢である。どのような危機的な状況におかれても、感情的に、あたふたするのでなく、冷静にその場の状況を離れた位置から見る姿勢を保つことである。

すなわち、「空気を読むことが困難である」を知るだけでなく、その上で「空気を読むことが困難である」を知りつつも、場に秩序があるフリをしよう、ということである。様々な場において、場の秩序が保たれているようにふるまうのが重要なルールなのである。




場の創造としてのおもしろさ(笑い)


空気を読むことが困難であると知りつつも、場に秩序があるようにふるまうことが求められているとすれば、それは大変めんどくさいし、繊細で息苦しい場ではないだろうか。だからおもしろさ(笑い)が重要視される。おもしろさ(笑い)は、場の空気をあえて破る緊張とそれを回復させる緩和に起こる。「クール」な姿勢とは、空気を読めているということのポーズであるが、おもしろさ(笑い)はさらに場の空気を読み、コントロールするという、というさらに高度に能動的な姿勢である。

おもしろさ(笑い)には、秩序を保とうとする場から、ずれていくこと、新たな場を作り出していく力がある。「これっておもしろくない?」とは「新しくない?」ということであり、だからこの「おもしろい」は、とてもクリエイティブなものである。

そしてこのような創造性は、さらにストイックでもある。なにがおもしろいのか、だれもわからない。それを自らを信じ楽しむ。自らが楽しいものを探求し、楽しんでしまう。それは場から外れる可能性が高い孤独な行為であるが、勇気を持って、自分を信じて楽しんでしまうのだ。おもしろさ(笑い)のクリエイティビティは、「空気を読むことが困難である」薄氷化した社会では、重要な価値をもつ。おもしろさ(笑い)の探求は倫理的な意味さえあるといえる。




なぜ若者は下流でなくのま猫に怒るのか


「自由を制限され、格差社会下流にいて何で怒んないの?社会を斜めに見る反逆精神が若者の特権じゃないの?」学生運動の元闘士に言われたときに*1感じる違和感は、そんな単純ではないだろうということだ。確かに経済的に恵まれることは望むが、「経済的に恵まれていることが良い」とベタに信じられるほどに、幸せな世界には住んでいない。

勝ち組/負け組、格差社会下流は、「経済的な豊さが幸せである」という価値が崩壊している恐怖から、「みなが勝ち組になりたがっている」ことで同意され場が形成されているというフリであり、そのようにふるまいたい一つの場の空気ではないだろうか。

若者が下流だから」と怒らずにのま猫問題に怒ったのは、現代におけるリアリティは、経済的豊かさが良いという古い場へ執着よりも、場の創造としての「おもしろさ」を楽しむことにあるからだ。「空気を読む」閉塞から、おもしろさ(笑い)という場(空気)の創造へ。

のま猫モナーという「おもしろ(笑い)」への冒涜であり、エイベックスが場を生みだしていくという創造性への敬意を侮辱したと、怒ったのである。

*1:なぜ若者は怒らずにキレるのか? http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20060412