「オタク」はなぜもっとも健全な人々なのか 場の拘束と解放 その3

pikarrr2006-04-28

場への固執と場からの離脱という「閉塞」


日本はハイコンテクスト社会と言われてきた。しかし現代のような価値が多様で、流動的な社会では、コンテクスト(文脈)の共有が困難になってきている。ハイコンテクストがくずれてきている。

一つは崩れているから固執するということだ。「空気を読む」ということへの過剰な反応は、「空気を読むことが困難である」を知るだけでなく、その上で「空気を読むことが困難である」を知りつつも、場に秩序があるフリをしよう、ということである。しかしそれは、大変めんどくさいし、繊細で息苦しい。

二つ目は、場への固執を回避するということだ。そのために、儀礼的無関心という秩序が生まれる。礼儀ある他者回避であり、コンビニ、ファーストフード、ファミレスなどが好まれる。またこのような他者回避は、現代におけるリスク回避である。強く場に拘束されることは危険である。たとえば純愛などとしてのめり込んでも、いつ他者に裏切られるかわからない。

このような価値の多様化は、僕たちの規律を解体し、社会的な抑圧を解放したといわれる。しかしそれは解放でなく新たな「閉塞」として働いている。それは「自由という閉塞」である。「自由だから好きなことしなさい」「自由だから夢をもちなさい」このような場への固執と、場からの離脱においても、「閉塞」は働いているのである。




「閉塞」を回避するためにいかに抑圧を見出すか


可能性が広がる社会なのに、なぜ人々は閉塞感に苦しむのか。問題はいかに欲望するか、リビドー(性欲動)の通路を見いだすかである。人は内部から湧き上がる性欲動(リビドー)を持っている。それは内部に不快として溜まるために、快感によって解放されることが望まれる。しかしこの快感は単なる刺激ではなく、幼児の母の乳を吸う快感であり、至上の幸福感、私が分化される前の母との一体感を全能感への回帰である。しかしこのような実感はもはや戻ることはなく、人はそれを求め続ける。

リビドーを解消するために、たとえばゲームなど様々な刺激が作られている。しかしそう簡単ではない。リビドーの解消としての欲望の対象は抑圧への反発として見出される。自由は抑圧を解体し欲望することを困難にし、リビドーの解消の通路を塞ぐ。

予測されたものは欲望されない。ズレだところに欲望は感染する。ズレとは白いキャンパスについた小さな「汚れたシミ」のようなものである。ズレはリビドーを解消するための社会という抑圧に開いた通路である。そこになにもないにも関わらず、禁止されているものを欲望する、さらにはみなが欲望するものを欲望するというように、社会においてズレとしての性倒錯対象は多様にあらわる。だから広告的マーケティングは必ず失敗する。逆説的であるが、「閉塞」を回避するために、いかに「抑圧」を見出すかである。




「オタク」というもっとも健全な人々


このようなリビドーの解消の一つとして「おもしろさ」がある。「おもしろい」とは秩序を保とうとする場から、ズレていくこと、新たな場を作り出していく力がある。だから閉塞する社会で「おもしろさ」は高い価値が持たれる。のま猫モナーなどのズレた存在としての「おもしろ」という創造性への冒涜であったために、2ちゃねらーは怒ったのである。

そしてこのような欲望の対象としての「おもしろさ」を作り出す天才は「オタク」ではないだろうか。彼らは何故に、欲望の対象を作り出しつづけることができるのだろうか。彼らは社会的には、マイナスで語れる。その存在は社会の「汚れたシミ」である。

もてないなど、コミュニケーションがヘタな人々であったと、彼らは自らを抑圧を作り出すことに成功している。たとえば女性にもてないなどの抑圧が歪な禁止された女性という空想を生みだしつづけ、リビドー解消の通路としての多様な性倒錯対象を生み出し続けている。宮崎努などのイメージで病んだ人々として語られることが多いが、そのキモさを生み出す創造性において彼らは現代でもっとも健全な人々であるかもしれない。