おばさんはなぜ「純愛」に興奮するのか

pikarrr2006-04-29

「私」が様々に語る苦悩は性的快感の不満である


人はリビドー(性欲動)を解放しようと生きているというのは、還元主義的、機械論的だろうか。リビドーの解放は単に性的な刺激ではなく、「ズレ」である。正しさ、調和からズレたところにしか、リビドー解放の出口は見いだせない。そして解放されはじめたとたんに、もはやそれはズレでなく、出口は閉じ始めるのだ。

ズレとはなにか。そもそもにおいてリビドー解放の出口は閉ざされている。幼児ときの母に抱かれることによるリビドー解放という至上の幸福感は、社会では秩序を乱すものとして、抑圧し、禁止されている。そのような至上の幸福感はもはやとりもどすことができない。それでも解放を求めて、社会が禁止するものへ、正しさ、調和からズレたところに、リビドーを開放しようとするのである。

そしてこの出口こそが「私」という実感(リアリティ)であり、ここに人間の不確実性、ダイナミズムが生まれる。リビドー論のラディカルさは、「私」が様々に語る苦悩は性的快感の不満(リビドーが解消されない不満)であるということだ。




「私」とは満たされない性的快楽の欠落


性行為は気持ちが良いが、快感を感じた瞬間に出口は閉じ始めている。性器のこすりあいの快感だけでは、継続したリビドーの解消は行えない。だから次は違う女性にしようか、ナースプレイにしようか、屋外でしようか、となる。

性行為とはただ社会的に禁止されているというタブーという「ズレ」であるから気持ちが良いのであり、逆説的に実際に性行為をしない妄想的な性関係こそが様々なズレを生み出す快楽でさえありえるのだ。家庭内性行為につかれたおばさんにとって「純愛」こそがリビドー解消の出口であり、エロいのだ。

スポーツ、仕事をすること、あるいは哲学することさえ性的な快感をもとめ行われる。身体は性感体であり、ズレを見いだすためには、触ることだけでなく、見ること、考えること、思うことなどすべてが総動員されるのであり、性器のこすりあいの快感はその一方法でしかない。

この満たされない性的快楽の欠落は「私」と呼ばれ、それを求めることは自己向上、探求と名付けられても、人はリビドー(性欲動)を解放しようと生きているのだ。
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