なぜ人はセックスをマッチョに語るのか

pikarrr2006-04-30

セックスマッチョという非「性的なもの」


「性的なもの」を語るときに、セックスについての話は、あまりおもしろくないだろう。特にマッチョなセックス自慢話は、3流エロロマンス小説のパクリ、ワンパターンAVビデオを模写した自己満足でしかないからだ。

多くの男性がセックスをこのようなマッチョな自慢話として語るときに、社会的な「男」というものを演じているのであり、そこでは「性的なもの」は隠されているのだ。性行為は決して単にAVビデオ的なマッチョな行為ではなく、乳を吸うというように多くにおいて母を思う幼児退行的行為であることこそが語られない「性的なもの」である。

セックスの話は女性の肌に触っているだけで安心する、あるいは子供のように甘えるというときに、「性的なもの」の表出であるでいえる。

最近は、マッチョなセックス話をするのは男性だけではない。女性も社会的な強者としての「男性」的であることを求めており、巨乳は男性にとってマザコン的な意味であるが、女性にとっては女を虜にするセックスマシーン筋肉マッチョと同様な意味で、男を虜にするセックスマッチョなシンボルである。




「性的なもの」はグロい


人がストレスをもっとも感じるのは、自分で自分をコントロールできない拘束された状態のときである。関係性によって拘束されるときに、リビドーの解放は閉塞される。「性的なもの」そのものは、身体的なものであっても、社会において表出するのは抑圧からいびつにあふれるグロいもの、「汚物」という精神的なものとしてである。

その意味ではセックス話よりもむしろ童貞の様々なセックスへの妄想自慰話の方が「性的なもの」といえる。あるいは、オタクの萌えであり(最近では萌えも一般化したがオタクの持つグロさは、様々に生まれ続けている)、女子高生のいびつな性的な服装、おばさんのヨン様へに萌える姿、おやじの仕事中毒なハイテンションなど、周りからみるとグロテスクな姿ことそ、「性的なもの」の表出なのである。
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