「物質(情報)ネットワーク」としての唯物論

pikarrr2006-05-04

「唯物世界内部」の完結性


唯物論の限界には、1)唯物世界内部の不完全性と2)唯物世界外部の可能性の以下の七つが考えられる。

1)唯物世界内部の不完全性

 ①不完全性定理・・・科学にはこの世界を記述できない。
 ②不確実性定理・・・ry)
 ③量子力学・・・ry)
 ④カオス理論・・・ゆらぎの不確実性によって決定できない。
 ⑤実証不可能性大統一理論を実証する方法がない。

2)唯物世界外部の可能性

 ⑥独我論・・・この世界は私の認識世界でしかない
 ⑦認識論・・・人間は現象しか認識できない。科学も一つの認識方法でしかない。

その上での、唯物論擁護を行うと、1)唯物世界内部の不完全性は、世界を唯物に記述することの不可能性であって、必ずしも世界内部を物質によって説明することを否定するものではない。すなわち世界を記述するために「物質以外」を必要としない。




情報はいつも物質としてある


たとえば、情報はいつも物質としてある。情報は、素材、解釈項、解釈結果の三項で考えられます。たとえば源氏物語単行本という素材がある、それを解釈項としてのあなたが解釈し、そしてそこから「おもしろい」という解釈結果がでてくる。認識するという脳内の電気信号も含めて、これら三項はすべて物質でできている。

本は、紙とインクでできている。声は空気の振動であり、声を発する声帯は物質である。紙とインクで表現された情報を空気の振動や電流のパターンに置き換える、すなわち物質からどのような差異を見出すかという規則も、それがあたなの頭の中にあろうが、空間にただよおうが物質である。それを思考と呼べば、思考は物質である。




「私」という物語


唯物論の限界としての、2)唯物世界外部の可能性(⑥独我論、⑦認識論)についていえば、「世界を記述するために「物質以外」を必要としない。」のは、そもそも人間は「物質」を認識することしかできないのである。「物質以外」を必要としないのでなく、認識できないのである。そして外部は人間認識の外部、「ものそのもの」でしかない、ということだ。

しかしこのような外部は、人間が見いだしたものである。そしてそれは、言語の獲得によってのみ見いだされたものである。

たとえば「私」とは言語としてしか存在しない。「私」とはシニフィアンであり、(私的な)言語体系内の差異としてある。すなわち様々なシニフィアン(母、父、鉄、水、あやや・・・)との関係性によって規定され、また日々ダイナミズムの中で変化する。これらは、無意識下の言語記憶によって支えら得る。

たとえば、主観性の問題はいかに自己同一性が維持されるか、ということであるが、それは、自己は決して止まらないシステムである。たとえばなぜ寝る、意識を失う後でも、自己が失われないのか、という疑問があるが、そもそも「意識」とは自己の一部でしかなく、無意識、記憶としての自己は止まることがない。寝ていても、身体は作動し続けているということである。自己とは身体であるならば、自己同一性が維持されるとのは当然である。




唯物世界とは物質(情報)ネットワークである


認識論(「私」の内部)は人間のみある。人間が世界を言語として認識するとき、それは唯名論に近づく。しかし唯物論では、認識する(解釈する)のは人間のみではない。たとえば朝顔が朝に花を開くのは、朝という情報(光、温度など)を認識しているわけだ。

認識論では、朝顔は朝を認識している」と私は認識する。」となるが、唯物論「情報はいつも物質としてある。」である。唯物世界は物質を媒体に情報を伝達しあう物質(情報)ネットワークである。人間身体もこのような世界に張り巡らされた物質(情報)ネットワークの一部である。環境からの情報を解釈し、変換することで、思考を含めた生理は作動している。だから認識論(私とは)は、物質(情報)ネットワークの一部の人の脳という物質の中で生まれる物語(錯覚)である、というのが、唯物論である。

「私」「言語」がなければ、存在しないということから、それ自身のみでは自立的に存在し得ない情報である。「言語」も内在した「物質ネットワーク」の中でしか、存在し得ない。外部は唯物世界の唯物的物語でしかない。