続 なぜ若者は「下流」でなく「のま猫」に怒るのか
「下流」という経済競争抑圧
「自由を制限され、格差社会の下流にいて何で怒んないの?社会を斜めに見る反逆精神が若者の特権じゃないの?」と学生運動の元闘士が言うときに、*2、問題なのはそこに「体制」が働いているからでしょう。格差そのものが問題でなく、自由競争が抑圧され、努力しても報われない、上流が勝つような出来レースの構造を「体制」が意図的に作り出している、ということが「体制の抑圧」です。
民主主義的な平等とは、みなに経済的な平等を保証するのでなく、機会の平等であり、自由な競争です。保守的な弱者救済も経済的な平等を保証するのでなく、機会の平等の一部です。これはよく勘違いされています。
ここで「体制の抑圧」というときには、「下流」が問題になるように、経済競争についての「機会の不平等」を強く指します。
創造する機会の平等
抑圧とは本質的に、自己承認、自己尊厳への抑圧です。だから「下流」でも「のま猫」でも、問題は束縛されることへの抑圧です。違いはリアリティな「抑圧」とはなにかということです。
かつて「体制」に若者が怒ったときも、単に経済格差におこったのでなく、若者の尊厳が抑圧されていると怒ったのです。「経済格差」とはその象徴の一面でしかありません。そして物質的に豊かになり、「下流だから怒る」というように、問題を経済競争を「抑圧する体制」に還元するような単純な構造にはリアリティがもてなくなっています。
たとえばビルゲイツはなぜ世界一の金持ちになったのにあれほど精力的に働くのか。いまだにハンバーガーをつまみながら仕事をするらしいです。それは、お金ではなく、自己承認されつづけるためです。「おもしろく」と言われ続けるためです。たとえばこれは、現代のクリエーターであるハッカー、オタクなどに共通する価値観ではないでしょうか。彼らは豊かさに関係なく、薄汚い格好をするのは重要性はそこにはないのだ、ということを示すためとも言われます。
現代において自己承認とは金銭でなく創造性です。重要なのは、選択が抑圧されないこと、創造性が疎外されないことです。だから創造する機会の平等こそが大切なのです。そして「体制」はどちらかといえば、創造より経済(金銭)に興味がある古いシステムであり、その意味であまり興味がわかないのです。
「のま猫問題」という創造性競争抑圧
「おもしろい」とは創造性であり、抑圧とは、「インスパイア」の名のもとに創造性が貶められることです。のま猫は「インスパイア」の名のもとに2ちゃんねるの創造性が冒涜されました。電車男は、2ちゃんねるという創造性が尊ばれながら、マスメディアにのりました。これによって、マスメディアが潤ったとしても、2ちゃんねらーが求めているのは、自分たちの承認であり、尊厳なのですから、許されます。
ただこれは2ちゃねらー的理屈で、もともと「のま猫」しかりネット上の創作物は、商業的なものから「インスパイア」されたものにあふれています。エイベックス社員は気持ち的には仲間だったのではないでしょうか。松浦社長もそういっています。だからのま猫でオゾンの曲を使うことを許した。すなわちネットは「インスパイア」世界であり、インスパイアを許しあおう、楽しくやろうが、エイベックスの理屈でした。
しかし商業の場合には、どこまで金儲けに使うかは別にしても、意匠権などの権利を明確にすることが業務です。たとえ儀礼であってもこの行為において、エイベックスは企業であり、おもしろく「インスパイア」世界外なのでしょう。著作権を全面的に放棄し、2ちゃんねるからパクったことを表明すれば、お金を稼いでも、若者は怒らなかったかもしれません。
「生きる意味とは創造性の追求である」
なにが創造的なのか、なにがおもしろいのか、自己承認において、創造性の追求、「おもしろい」ことは、経済の追求よりも価値多様です。人それぞれの価値があり、必要最小限のルールを守ってやりたいようにやればよい、勝ち負けは自己責任、そしてお金儲けだけが勝ちなんてくだらない、良い悪いは人それぞれ見方でしかない、というリバタリアン的思考が、現代の自己承認の追求、すなわちリアリティではないでしょうか。
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*1:なぜ若者は「下流」でなく「のま猫」に怒るのか http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20060427
*2:なぜ若者は怒らずにキレるのか? http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20060412
*3:画像元 http://rerere.oops.jp/weblog/archives/2005/03/post_129.html