続 なぜ「空気を乗りこなせ!(コンテクストサーフィン)」なのか

pikarrr2006-05-14

「生き甲斐競争の自由化」「経済競争の自由化」
 
リーマン◆N.J4yHzilE
「なぜ「空気を乗りこなせ!(コンテクストサーフィン)」なのか」*1読みました。ぴかぁ〜さんが以前言われていたとおり、「笑い」とは真に「恐怖」であるものにアイロニカルな立場を取ることで起きる。その意味で、「空気読み」が過剰に要請されるのは無意識に抑圧されている恐怖にせき立てられるからかと思いました。

のまネコ問題下流問題を「労働とは何か」という問題に引きつけて考えるとなるほどわかりやすい。「人は金ではなく創造性で働くから。」

フリーターの若者の多くは正社員を望んでいるというアンケート結果が「フリーター問題は雇用問題だ」という議論に直接結びつくことが多いですが、彼らが「どのような職業」を望んでいるかがサッパリ議論されない。それはコンビニや飲食店や事務系の地味な仕事の正社員ではなく、小説家やwebクリエイターやテレビ関係など「他者が欲望する」職業であり、創造性を常に問われる職業です。そしてそれは現代ではコンテクストを組み替え、細かな「創造性」を次々と提出して受け手を喜ばせる産業です。そこでは賃金の多寡はほとんど問題にならない。

虚妄の成果主義を筆頭として賃金関係の本を読むと必ず載っているんですが、人は金が絡むと創造性を発揮できなくなるんですよね。他者の承認や達成感は仕事の動機付けになりますが、金や人間関係は衛生要因(環境を整えるための要因)にしかならないわけです。金が問題になる次元と仕事のやる気が問題になる次元はべつです。これを混同すると以下小話のようになる。

ユダヤ人の子どもが買い物に来て、周囲の子どもたちに「やーい、ユダヤ人」と囃され困った彼は「ありがとう」と10サンチーム渡し、子どもたちは大喜びで帰っていった。翌日また囃しに来た彼らに今度は5サンチーム渡した。翌日、2サンチームを渡すと子どもたちは不平を言った。「もうお金がないんだよ」というと、「こんなに安いんじゃやる気になれない」と怒って帰っていき、ユダヤ人の子どもは胸をなで下ろした。

リーマン◆N.J4yHzilE
高度資本主義は消費社会になって差異の消費に向かうことは必至ですが、その際に前提となるのは、やはり人間の労働に対する意欲そのものだと。フリーソフト文化なんて、相手の尊敬と理解・協力そして創造性の魅力以外に「対価」はありえない、まさにプライスレスなんですよね。

だから私は「小さな政府」は反対で、ある程度インフラが行き渡ったんだから中くらいの政府を作って「なんどでもやり直しのきく」セイフティネットを完備しても人はやる気を失わないよ、と思うわけです。

今のようにやたらと衛生要因を悪くして(賃金破壊、雇用破壊など)不安をあおり立てると、世の中どんどんヒステリックになってコントロールがますます効かなくなっていくんじゃないかなぁ。それが幸せなこととは全く思えない。

「ヘタレ」というんですかね。適度に「ヘタレ」つつ、各自が創造性を発揮して時折社会を支える仕事を請け負う。そういうのが理想ですね。

ぴかぁ〜◆q5y3ccmqnw
「生き甲斐難民」

「人は金ではなく創造性で働く。」自己証明への欲望が人が行動する要因、ということですね。これはポストモダンと関係なく変わらない。たとえば高度成長時代に年功序列、終身雇用によって企業が安定し供給した「仕事」とは、金銭だけでなく、「創造性を働かせる場」ですね。いまのクリエイティブと内容は違うでしょうが、人々は仕事に自分なりの生き甲斐、自分らしさをみいだした。だからサービス残業をしてまでも、仕事に没入した。

バブル後、中国の安い労働力などで、景気が後退し、企業は「仕事」を安定供給できなくなっている。このときに日本は無駄を排除し、効率化が進められた訳ですが、ここで「生き甲斐ある仕事」と、「(誰でもできる)対価としての仕事」が分離したのだと思います。「生き甲斐ある仕事」とは苦楽とは関係がなく、自分のプライドを支える仕事と言うことです。

そして「生き甲斐ある仕事」は既得サラリーマンが確保し、「対価としての仕事」はフリーターなど徹底的に安い賃金でまかなう構図ができた。また正社員で入っても先輩が少ない「生き甲斐ある仕事」を離さず、「対価としての仕事」が回されるなど、「仕事」はかつてのような「創造性を働かせる場」を安定供給できなくなった。そのために多くの「生き甲斐難民」を生んだ。独断的ですが、これがボクのイメージです。

ぴかぁ〜◆q5y3ccmqnw
「生き甲斐競争の自由化」「経済競争の自由化」の混乱

構造改革規制緩和は、既得権益の解体と自由競争を目指すものですね。この中身に、少し混乱があるのかもしれません。若者は既得権益を解体し、自由競争を望みますが、求めているのは「生き甲斐ある仕事」の解放ではないでしょうか。しかし行政が管理できるのは、生き甲斐というアバウトなものよりも、経済的なものですね。

ライブドアショックを機会に起こった反構造改革への揺り戻し、最近の「(経済)格差社会についての言及が意味するのは、求めた「生き甲斐競争の自由化」でなく、「経済競争の自由化」が進んだこというズレに気づいたのかもしれません。

だからリーマンさんの以下につながるわけです。

>だから私は小さな政府は反対で、ある程度インフラが行き渡ったんだから中くらいの政府を作って「なんどでもやり直しのきく」セイフティネットを完備しても人はやる気を失わないよ、と思うわけです。

しかしこれは、ネオリベ的です。「好きにさせろ、ただ困ったときは助けろ。」これが若者の本音かもしれませんが、なかなか都合の良い、責任回避な考えでもあります。「生き甲斐競争の自由化」「経済競争の自由化」は実際なかなか切り離せないものです。

その意味でやはりボクはリバタリアン的な、「小さな政府」を支持したいですね。「好きにさせろ、困ったときは自分で責任をとる。」これが真のコンテクストサーファーではないでしょうか。だから下流でなく、のま猫に怒るのではないでしょうか。

下流となっても「生き甲斐」を求める。すなわち「経済競争の自由化」による弊害が伴っても「生き甲斐競争の自由化」を選ぶ。ん〜どうでしょう・・・

リーマン◆N.J4yHzilE
フリーターでも、たとえばセブンイレブンのバイトなんかは自分で発注まで任されるわけです。そういうやり方で「やる気」を引き出しています。また、人件費抑制のために派遣社員やアルバイトでも、賃金は低いままで部署管理や新人(派遣社員やアルバイト)の育成までさせられています。現実は重層的に発展するので、なかなか複雑ですね。

それと、世代論は危険ですが、社内ニートってすごくリアリティがあるんですよね。「内側から見た富士通成果主義』の崩壊」から「パラサイトミドルの衝撃」まで至る所で指摘されているのですが、バブル期の異常な雇用増大とその後の就職氷河期によって、労働人口構成がいびつになり、若者はいつまで経っても上位のポストに就けず、また年齢でポストに就いたマネージメント能力のない上司のもとでさらに成長の機会を失わされ、「面白い」仕事が出来ずやりがいを持てない。彼らは正社員だけれども「生きがい難民」だと思う。

ぴかぁ〜◆q5y3ccmqnw
社会ニートですか。「社内うつ病というのも増えているらしいですね。会社外では元気なのですが、会社内でうつになる。これは仕事が忙しい、責任が大きすぎるとかではなく、まじめで賢明に仕事に取り組む人が、「いつまで経っても上位のポストに就けず、また年齢でポストに就いたマネージメント能力のない上司のもとでさらに成長の機会を失わされ、「面白い」仕事が出来ずやりがいを持てない。」という空回りに起こりやすいといわれています。ある意味で、「彼らは正社員だけれども「生きがい難民」だと思う。」のです。




■コンテクストサーファーに「覚悟」はあるのか
 
リーマン◆N.J4yHzilE
>しかしこれは、ネオリベ的です。

え、そうなんですか?私自身はリベラルだと思っているのですが……ネオリベって結局のところ既得権の永久化方策のことですよね。宮台真司リベラリストネオリベラリストについて以下のように説明しています。

新自由主義の欠点とは、新自由主義金科玉条とするはずの『機会の平等』を自らが裏切ることです。それを二つの面で指摘できます。一つは、……勝った人(の子ども)はますます勝ちやすく、負けた人(の子ども)はますます負けやすくなるという、機会の不平等の拡大傾向です。もう一つは、小さな政府を標榜するために福祉国家においては行政が担う相互扶助機能を再度、かつて存在した家族の性別役割分業や、地域の共同体慣習へと差し戻そうとするところから来る矛盾です。なぜなら……その多くが『機会の平等』原理にもともと反しているからです。……たとえばマーガレット・サッチャーは『お年寄りは嫁さんが看ましょう』とか『女の人は専業主婦になっておいしいご飯を作ることを生きがいにしましょう』なんて言っていました。そうしないと『小さな政府』なんかあり得ない……というか、伝統的で保守的な家族の生き方を壊さないために、『小さな政府』を主張しているとも見られます。

……ネオリベラリズムリベラリズムの違いは、相続税をめぐって典型的に表れます。ネオリベラリズムは……相続税を出来るだけ低くしろと言う……リベラリストは、どういう親の下で生まれるのかを子どもが選ぶことが出来ない以上、親の財産の違いで金持ちの子どもが下駄を履けたりするのはおかしいとして、高額相続税を主張します。

「学校が自由になる日」p262-265)
社会がセイフティーネットを持たなければ優勝劣敗になって、保守主義になります。各人の「機会の自由」を本当に実現しようとすれば小さな政府ではダメで、それなりの規模の政府が必要になります。各人の「好きにさせろ」と言う主張を担保するために、中くらいの政府が必要なんです。もちろん小泉首相「セイフティーネット」リップサービスでやる気ゼロですが(嗤 ですので、

「好きにさせろ、ただ困ったときは助けろ。」をどうするのかは別にしても、それ以前に「好きにさせろ」という「機会の平等」が小さな政府では実現できないわけです。

ぴかぁ〜◆q5y3ccmqnw
ネオリベラリズムの根底にはリバタリアニズム自由至上主義)があります。「好きにさせろ、困ったときは自分で責任をとる。」であり、「小さな政府」はもともとリバタリアニズムです。しかし実働的には宮台のいうように、「『機会の平等』を自らが裏切る」などの弊害がでるだろうと考えられます。

たとえばイラク人質事件では「自己責任だ!」というリバタリアニズム自由至上主義)な発言がありましたが、彼らは自分に災難が振るかかったときも、「自己責任だ!」という覚悟があっていっているのか。そうではなく、最近の格差社会批判のように、「政府が悪い。たすけろ」というのです。

だからネオリベのように保守主義で補完されなければリバタリアニズムは運用されない、あるいはネオコンのように、積極的に政府が介入することで逆に国民を一方向に制御するようなことが起こるのです。

「生き甲斐競争の自由化」「経済競争の自由化」は実際なかなか切り離せない中で、最近の若者は、リベラルよりも、リバタリアニズム思考が強いと言われています。これを宮代は、どうせ覚悟などできていないだろう。ネオリベだ。」ということです。

ぴかぁ〜◆q5y3ccmqnw
ボクは以下のように言いました。これはそれでもある意味でリバタリアンである「覚悟」です。下流でもしかたがない覚悟で、創造性を目指す。それでも迷うのが、やはりどこかで「ヘタレ」て、助けをもとめるのかな。ということです。

真のコンテクストサーファー(空気乗り)はその場の空気を読み、波風を立てずに、うまくやりすごす者ではない。真のコンテクストサーファーとは、場を壊す者である。その場の空気を読み、波紋を投げかけ、そして新たな場を生み出す、新たなリアリティを生み出す者である。

破壊し、創造するということは、ある意味で危険な行為である。それははじめは多くにおいて異端者として排除される可能性が高い。そして新たに場を作り出してもそれが次の場として認知されるとは限らない。そしてさらには作られた場はさらに自ら壊し、新陳代謝を進めつづけなければならない。

これはあまりにストイックな姿勢かもしれないが、現代においてこのような場を創造する姿勢の重視は一つの倫理観となっている。

「なぜ「空気を乗りこなせ!(コンテクストサーフィン)」なのか」http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20060511



電通的思考とネットの無報酬労働
 
むじんくん◆zqZE9JGYA6
すいません、素朴な疑問なんですけど、生きがいってそんなに皆もとめているんですか?

>それはコンビニや飲食店や事務系の地味な仕事の正社員ではなく、小説家やwebクリエイターやテレビ関係など「他者が欲望する」職業であり、創造性を常に問われる職業です。

これってホントなんでしょうか。そうだとしたら、僕は「反生きがい派」ですね(笑)。というのは、こういう生きがいっていうのは確実に罠にはまるわけですし、正直言って下らないと思うんですよ。ホントにこんな感情を皆が持っているんでしょうか。

ぴかぁ〜◆q5y3ccmqnw
「生き甲斐」はベタ言い方ですが、アイデンティティと言い換えてもいいと思います。

むじんくん◆zqZE9JGYA6
電通的な思考ですよね。そういうのは今の時代でアイデンティティを得たければ、必然だというのはそうですし、切実な面もあるんでしょうけど、やっぱりもう諦めるべきだと思いますよ。往生際が悪いと思うわけ(笑)。

やはり電通的思考というのは、19世紀以降に近代社会を支配していた大衆メディアの最後の形だと思うんですね。それは一つの到達点だとは思いますが、実態としてもう終わりつつあるんじゃないかと思うのです。

一般的な「他者」が欲望する対象になるということはもうできないわけですし、フリーターが小説家とか「創造的な仕事に就きたい」なんてアホなこと本当に言っているのか分からないのですけど、そういう発想も廃れつつあるんじゃないかと思うのです。

ぴかぁ〜◆q5y3ccmqnw
「創造的な仕事に就きたい」というか、ネット上で賢明に行われる無報酬の労働という不思議は、そこにアイデンティティが賭けられているからでしょう。それはまさにこの「ネットの爆発」に現れているわけで、往生際が悪くとも、とても廃れつつあるとはいえないんじゃないですか。

2ちゃんねるのヘビーユーザーであるむじんくん「おれは反生きがい派だ」と言われても説得力がありません。(笑)

考える名無しさん
アイデンティティ「自我の物語」と言い換えた方が正しい。俺は「独自な思考」なるものをあまり信用していない。なぜならそれを口にする奴に限って危機感が無い奴が多いからだ。それは自分はもしかして誰かが言っていたことをまたコピーして言っているのではないかという、危機感の無さという意味だ。「俺らは〜」とか言っている奴の方がまだ「かわいい」。無意識にせよ知っているからだ。それこそ俺自身にしたってあやしいもんだ。「生きる」ということに「客観的」「生きがい」なるものは存在しない、という言い方なら正しい。

「反生きがい派」と称したって人間はそんなに強くない。それこそ強く「生きがいという物語」を求める人間の弱さとその行為の残酷さこそ言うべきことがあると思うけど。電通的思考を「物語」といったらどう?それこそ電通のシステムはそれほど馬鹿ではない(褒める気も無いが)。それこそ、それに変わる代替システムを提案するこそ建設的かもね(いつかはまた積み木を崩すの様に解体されるであろうが)。

考える名無しさん
続きそれこそ、「物語=神話」を交換するシステムが社会ではないか?人間という集団はその中で自己の現存在を位置づける。従って、現存在は社会という集団を前提とした幻想であり、孤独に生きる人間は自然との象徴交換がある(ハイデガーの議論はこの辺が不明確である)にすぎない。

然るに社会というシステムは、絶対的中心を持たないという意味で相対的存在である。哲学者は言語でもって言語と無意味としても仕方がない。問題はその先、「どうするか」である。「知」と生命の戦略、ガイアという地球のエコノミーシステムがそのヒントがあるとだけ言っておく。

ぴかぁ〜◆q5y3ccmqnw
ボクは、「人は根元的にアウラを必要とする」とは、アウラ的錯覚こそが、ぼくたちの現実(リアリティ)である、ということである。」と言いました。「俺は「独自な思考」なるものをあまり信用していない。」でも、電通的な思考」でも、「反生きがい派」でも、「錯覚」でもよいが、このこのラディカルさがない言説は信じてはいけないと思います。

たとえば「おまえなどどうでもよい存在なんだよ」と、自分の尊厳が踏みにじられる屑のように扱われる時、あるいは自分の親が馬鹿にされる、自分の息子がぼろかすにいじめられるときに自分の生を賭けてされ戦えず、「私など錯覚だ」「反いきがい派」とへらへらと出来るというのだろうか。ということです。

「なんのために生きるのだろう」「この世界に真実はない」という安易な哲学的言説には、このようなラディカルさが隠蔽されている。そしてこのような相対主義が物語として現実(リアリティ)を支えているためです。

*2

*1:http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20060511

*2:本内容は、2ちゃんねる哲学板「まなざしの快楽 PART16」スレッド http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/philo/1145201127/からの抜粋です。ただし内容は必要にあわせて編集しています。