なぜ「空気を乗りこなせ!(コンテクストサーフィン)」なのか

pikarrr2006-05-11

アウラ論とエクリチュール


かつて芸術作品にはアウラ(神性)が宿ると信じられていた。芸術作品は神のための書かれ、現代のように美術館で人々に公開されることも、ましてやコピーされて流通することもなく、「隠され」、その唯一性としてのアウラが保たれていた。しかし「複写技術の時代」には、人の目にさらされ、コピーされた作品は、様々なコンテクスト(文脈)にペーストされる。そこではもはやかつてのようなアウラを保つことはできない。

このようなベンヤミンアウラ論は、デリダエクリチュール論につながる。デリダエクリチュール(書かれたもの)はコンテクスト(文脈)からの断絶性をもち、無数のコンテクストに置かれ、無数の意味(散種)を持ちうる可能性がある。そして通常、エクリチュールに対する「意味」として認識されるものはこのような無数の意味を、単一な意味へと還元する、ある種の「錯覚」によるものである、と考える。だから芸術作品のアウラ(神性)とは、神を信仰する強力なコンテクストに支えられた錯覚である、といえる。




アウラとは現実(リアリティ)である


現代のようにネットからダウンロードした作品をipodに1000曲ぶち込んでランダム再生する時代、作品の価値はどのように見いだされるのだろうか。なぜなら人は根元的にアウラを必要とするからだ。ボクはこれを「無垢」と呼ぶが、唯一性としてのアウラ(無垢)」は、欲望の対象としてそしてリビドーの解消の出口として人には無くてはならない。

たとえばある女性をたまらないほど好きになる。そのときその女性は輝き、アウラをおびるだろう。しかしエクリチュール論でいえば、そのアウラはその女性そのものに内在するものではない。そのときの置かれたコンテクストの中で生まれたのである。いわば、その女性は別の女性でも良かったのである。さらに言えば、このようなデリダ脱構築においては、友達、父、母は代替可能であり、そして私自身さえも、他の誰でも良い存在へと解体される。

このようなラディカルさにおいて、「人は根元的にアウラを必要とする」とは、アウラ的錯覚こそが、ぼくたちの現実(リアリティ)である、ということである。芸術作品にアウラ(神性)があった時代、それは彼らの疑いのない現実(リアリティ)であったのでし、ボクたちもボクたちなりのアウラを必要とするのである。




リアリティの破壊という再創造


では現代はいかにアウラは見いだされるのか。その象徴的なものは、美術展示におかれた便器、デュシャン「泉」である。通常、日用品である便器を「コピー」し、美術展示というコンテクストに「ペースト」したときに、芸術作品というアウラが作品そのものでなく、コンテクストに依存しているという錯覚が浮き彫りにされ、アウラは解体された。

アウラが現実(リアリティ)を支えるというときに、これは現実(リアリティ)の破壊であると言える。そのための多くの人がデュィシャンの「泉」に不快感を表した。しかしポストモダン的状況において、もはや強力なコンテクストは保てず、美術館に展示される芸術作品だからすばらしいというアウラは保てない。従来のリアリティはすでに崩壊しつつあったのであり、リアリティの破壊することで、リアリティを再創造することでもあった、といえる。




ダイナミズムを生む「イベント」


このような傾向は芸術作品のみではなく、ポストモダン的な現象といえるだろう。価値多様化するポストモダン社会において、もはや強力なコンテクストは保てない。そのためのコンテクストに自覚的になり、破壊することで、アウラが創造されるのである。

たとえばいかにタレントを売り出すか。かわいい、スタイルのよい女性などは腐るほどいる。問題はどの女性かよりも、その素材をどのようなコンテクストに置くかであり、それは従来のコンテクスト、たとえば「アイドルとは清楚でまじめで」に対して、「アイドルがこんなことを!」と従来のコンテクストを破壊し、それはコンテクストを再創造することで、人々が欲望する新たなアウラが見いだされるのだ。

たとえば、TV番組が作り込まれたものから、バラエティ番組や、ライブテレビ(あいのりなど)など、イベント化され、ハプニング性の高いものへ向かっている。それは、一度創造されたコンテクストはすぐに色あせる。そのために再びズラされ、新たな斬新さ(一回性)としてのアウラを見いださなければならない。

ポストモダンにおいてリアリティを保つためには、美術展示に便器が置かれて終わりではない。リアリティを保つためには、コンテクストは破壊し続け、新たなアウラが創造され続けるというダイナミズムを保ち持ち続けるなければならない。それはハプニング性をうむ「イベント」化に求められる。

たとえばディスニーランドに人気は、絶えず変化するイベントによるものであり、渋谷が人気があるのは、渋谷にいくと新たななにかがあるのではないかという期待を想起するような、街そのものにイベント性があり、流動化しているためである。




ネットに内在するコンテクスト新陳代謝システム


このような傾向はさらにコピー&ペーストワールドであるネットで顕著である。すべてが電子データである虚像の世界で、コピーされたエクリチュールは、さまざまなコンテクストにペーストされ、無数の意味を産み続ける。

2ちゃんねるなどの掲示板では、言いたいこと(意味)があり、それを書き込むのでなく、そのときのコンテクスト(空気)の流れの中で、レスがスルーされずに誰かの欲望を想起するように、そのコンテクストに小さな波紋を呼ぶように、「このエクリチュールを置いてみたが、もまいらどうよ?」とレスされる。この小さくコンテクストを破壊、再生産の繰り返しによって、欲望を想起する小さなアウラは生産され続け、ネットの現実(リアリティ)は保たれているのだ。

ブログにも同様な原理は働いているだろう。リンク、トラックバック、アンテナ、ブックマークなどでつながれたブログ界隈というコンテクストの中で、ブログを書き、「どうよ?」と小さな波紋を広げる。村社会とモヒカン族は対立でなく、このようなコンテクストを破壊、再生産する新陳代謝システムとして機能している。そして最近Web2.0と呼ばれるものは、このようなネットに内在するダイナミズムをコントロールしながらも活性化させるようシステムに取り入れる試みである。




コンテクストサーフィンしろ!(空気を乗りこなせ!)


しかしこのようなコンテクストの活発な新陳代謝ポストモダン的強迫性ともなっている。次々に切り替わるコンテクストは意味を宙づりにしつづけ、まじめに対応しようとすればするほどディスコミュニケーションをうみ、炎上を生んでしまう。それは、外部に排除されるという「不安」を生み出す。

たとえば最近、ブログ界隈で「空気を読む」ことに関するエントリーに人気がある。これもポストモダン的強迫性を示しているだろう。そして「空気を読む」ことの強迫性はネット上だけでなく、実生活の中でも起こっている。共有した強力なコンテクストが消失し、人はその場その場のコンテクストにペーストされる。そしてそのたびにうまくコンテクストサーフィン(空気乗り)することを求められる。




真のコンテクストサーファー(空気乗り)という倫理観


しかし真のコンテクストサーファー(空気乗り)はその場の空気を読み、波風を立てずに、うまくやりすごる者ではない。真のコンテクストサーファーとは、場を壊す者である。その場の空気を読み、波紋を投げかけ、そして新たな場を生み出す、新たなリアリティを生み出す者である。このためのコンテクストサーファーは場に埋没してはいけない。取り込まれマジになってはいけない。たえず場を俯瞰し、眺めなければならない。

破壊し、創造するということは、ある意味で危険な行為である。それははじめは多くにおいて異端者として排除される可能性が高い。そして新たに場を作り出してもそれが次の場として認知されるとは限らない。そしてさらには作られた場はさらに自ら壊し、新陳代謝を進めつづけなければならない。

これはあまりにストイックな姿勢かもしれないが、現代においてこのような場を創造する姿勢の重視は一つの倫理観となっている。




なぜネット上ではただで労働が行われるのか


場(コンテクスト)の創造性は経済的な優位よりも尊ばれる。なぜならば、経済的な優位という価値観も一つのコンテクストでしかなく、そしてそれは、リアリティを失いつつあるコンテクストであるからだ。だから「若者は下流ではなく、のま猫問題」に怒る」のである。(なぜ若者は下流でなくのま猫に怒るのか http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20060427、続 なぜ若者は下流でなくのま猫に怒るのか http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20060508

なぜネット上ではただで労働が行われるのか。ネットの多くはお金が儲からなくても、労働が行われる不思議な空間である。ブログが書かれ、フリーソフトが作られと、実生活より労働力がつぎ込まれているとも言える。グーグルの小金儲けアフィリエイトサービス」が話題であるが、本質的にネットにおいてそれが目的にはなり得ないだろう。逆に言えば結果的に小金が入る、やる気の足しになる程度のことでしかない。このような傾向は最近プチクリなどと呼ばれたする。ボクはそれを展開し「ヘタレサイクル」といった。(ヘタレマップ http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20051103、ヘタレサイクル http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20051114

重要なことは、いかにアウラ的錯覚を生み出すか、自分という現実(リアリティ)、自分であり続けるかということであり、現代において、それは場を創造するコンテクストサーフィン(空気を乗りこなす)に求められているのである。