なぜ現実(リアリティ)はネットに共鳴するのか

pikarrr2006-05-15


 
「宮台的な危惧」


人には根元的に自己承認への渇望があり、神などの様々な「幻想」を現実(リアリティ)として満たそうとしてきた。現代は強力な「幻想」を支えるコンテクストが維持されにくく、コンテクストを破壊、再創造し続けることで、幻想を新陳代謝させ、現実(リアリティ)を継続させている。たとえば短期間のネットの爆発はまさにこのような加速された混沌の具現化である。

しかしこのような方法は、資本主義という「歴史の終わり」におけるスノビズムといわれる。そこにはもはやどこにも出口がなく、閉塞性の中で繰り返される強迫的な「終わりなき」ゲームでしかないと言われる。

また真の「コンテクストサーファー」という倫理*1が、大きなコンテクストに固執せず、新たにコンテクストを生み出し続けるストイックな姿勢であるといっても、実際は、安易に「小さな政府」「自己責任」と発言するわりに、自分が危機的状況に陥るとすぐにヘタれ、強い者に先導されるようなネオリベラル傾向ではないか。コンテクストを破壊、再創造する享楽傾向であり、去勢された社会性の維持が欠如している、という「宮台的な危惧」がある。




ディスコミュニケーションさえコミュニケーションする逞しさ


ボクは、楽観主義者なので、特に「ネットの爆発」に未来をみます。このフロンティアにおける欲望のるつぼ。そして「欲望が生み出す「幻想」こそが現実(リアリティ)である」というときに、この混沌はネットを越えて、現実(リアリティ)を生み出していくだろう。便所の落書きが血となり肉となり、現実(リアリティ)となる世界である。

たとえば、ネット住人たちは、テキストのみでコミュニケーションを行うことを強いられる。だからディスコミュニケーションに悩まされる。これはかなり深刻な問題である。炎上に巻き込まれた人ならばわかるが、プライドを賭けた血が逆流する目にあう。

そのためにネット住人たちはネットに適合するために、ディスコミュニケーションをコミュニケーションする」というとんでもない方法を編み出した。これによってネット世界は格段に発展した。「分かり合えないことを分かり合う。」この画期的な方法、ボクは2ちゃんねるスタイル」などと呼ぶが、実社会でひんしゅくものである。しかし実社会でも、ディスコミュニケーション状況が増える中で、少しずつ浸透しているのではないでしょうか。

「コンテクストサーファー(空気を乗りこなす)」であげたように、ネットはコピペ世界であり、デリダの反復可能性よろしく、コンテクストを読み、貼り付けるというコンテクストの操作を容易にした。これは統一した主体像を散乱させると悪くいわれたりするが、ディスコミュニケーションをコミュニケーションする」というウィルス的逞しさの前では、「散乱することを主体化する」とでもいえる、主体の自由につながるだろう。たとえば、知的になり、厨房になり、ネカマになりと、散乱を遊ぶという主体像を、すなわち現実(リアリティ)を作るわけだ。




ネット現実(リアリティ)に共鳴する実社会現実(リアリティ)


この自由さはある意味で、全能的高揚感につながる。そしてネット上のリバタリアニズム指向はこのような高揚感からきている。さらにこのような全能的高揚感が、サイバーカスケードとよばれる疑似共同体を生み出すことはよく知られている。たとえばネットを中心に広がった「自己責任」論などにみられます。イラク人質バッシングあびるバッシング、嫌韓など。

そしてこれがネオリベラルを意識せずとも下支えしているのではないだろうか。自由でありながら共同体の形成という高揚感。これらは現実(リアリティ)の変化であり、そしてすでにネットのリアリティは、実社会のリアリティに共鳴していることは疑いえません。

現実(リアリティー)がリビドーの解消につながっている、その駆動は押さえられない性的な欲動としてある。ボクたちはその駆動の一部でありながら、その関係性に絡め取られて進む。そして現代において、ネットの活発性がになっている。それは「宮台的な危惧」を巻き込みながら、それでも現実(リアリティー)は進むのだ。

*1:「なぜ「空気を乗りこなせ!(コンテクストサーフィン)」なのか」 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20060511