なぜ最近の若者は空気が読めないのか?

pikarrr2006-05-28

■最近の若者は「生真面目」 


①空気を読む努力しますか?空気に従うよう努力しますか?


どっきりで芸能人に突然知らない業界人が「ひさしぶり」とはなしかけてくるとその芸能人はどうする、というのがありました。芸能人は疑いながらも話をあわせようとします。しかし相手がだれかわからず、どう振る舞うべきかコンテクストが読めず、立場が宙吊りにされます。そのあたふたがおもしろいというドッキリです。ここにあるのは、懸命に空気を読む、そしてそれに従おうと努力するが、読めないという状況です。だれもが日常、このような宙吊りを味わっているからおもしろいのです。

この状況を、①「空気を読む努力しますか?」、②「空気に従うよう努力しますか?」の2項目で、以下の四つのパターンを考えました。

①生真面目型(あり/あり)・・・懸命に空気を読もうとして、読めずに、あたふたする

②融通(ひねくれ)型(あり/なし)・・・空気を読みつつ、優位に誘導して、「どなたか」聞き出す

③天然型(あり/なし)・・・特に疑わずに、適当に合わせて、受け流す

④糞真面目型(なし/なし)・・・空気を破って、「どなたですか?」と聞く

この分類はあまりに多くくりだし、また状況にもよるでしょう。話しかけてくる人が若い人なら気楽に「誰だっけ?」と聞けるが、年輩で身なりもよくそれなりの立場にいるような人であれば、失礼があってはいけないと、生真面目型にふるまうでしょう。人は他者との関係の中であるコンテクストの立場に「ピン留め」されます。




②若者は空気に鈍感?敏感?


最近の若者は空気を読めない、ということです。複雑さによりますが、人間がその場のコンテクスト(空気)を把握するには0.数秒程度だと言われています。空気を読むとは、将棋の対戦のように、意識を集中して相手の真意を深読みするようにとらえられますが、もっと無意識で反射的な行為なのはないでしょうか。

たとえば友達同士ではよく言葉遊びのように真意をズラして、漫才のように冗談(ネタ)のキャッチボールをします。ここでの会話は反射的ですが、言葉と真意に距離がある、空気読み、操作が働いています。たとえば「アイーン!」に子供が笑うのは、子供でさえ、はじめて「アイーン」という滑稽さをみて笑うのではなく、それが笑うものだという反復があるから笑うのです。そこには無意識に空気読みが働いているのです。

頭を使ってないなどといわれるギャルですが「〜みたいなあ〜」「っていうかあ」などの言い回しは、断定を避ける空気を和らげる効果をもつといわれています。いっけん煩雑な若者言葉ですが彼らはとくに小さなコミュニティへの帰属を重視し、曖昧ないい回して複雑、繊細な空気を保つっています。


空気を保つ行為は人間にとってそれほどめずらしい行為ではないですが、現代の特徴はその変化速度、多様性が増していることです。マジでありすぎると、次の瞬間には価値観が変化しているかもしれません。だから引いた姿勢で、回りの状況を確認し対応することが一つの方法です。しかし逆に空気を読みすぎると決断できないということがあります。それは、なんにでも寛容である故に、誰にもマジになれない「不寛容」であるといえます。純粋な「マジ」などとというもは存在しません。どこまでもアイロニカルな「マジ」なポーズでしかありません。




■ネットの普及が若者をベタにした? 


③リアリティは「マジ」から「ネタ」そして「ベタ」


このような社会的な変化は北田暁大「嗤う日本の「ナショナリズム」」(2005/02)ISBN:4140910240す。

①60年代〜70年代前半 自己否定から総括へ 連合赤軍

世界と自己、主体との関係を再帰的に問う、という近代人であることの要件を、極限まで突き詰めた連合赤軍「総括」

②70年代なかば〜80年代初頭 消費社会アイロニズム=(60年代への)抵抗としての無反省 コピーライターの思想

性急な反省を迫る思想主義と距離を置き、「無反省」という反省へ向かう。そしてメディア論的、消費社会論的なリアルの捕捉を試みる。消費社会的なリアリティと密接にかかわったアイロニズム

③80年代 消費社会シニシズム=無反省 なんとなくクリスタル、元気が出るテレビオレたちひょうきん族

消費社会的な行動様式が大衆化する中で、60年代への抵抗が抜け落ち、「無反省」となる。アイロニカルであることから、消費社会的シニシズム

④90年代〜2000年代 ロマン主義シニシズム 2ちゃんねる

第三項(「マスコミ」「資本」といったギョーカイ)の存在感が限りなく希薄化した行為空間において、「繋がり」の社会性の上昇によって、アイロニカル・ゲームは80年代よりも過酷になる。そして過剰な複雑性に対応するためにロマン的な対象(ナショナリズム「反市民主義」)が導入される。アイロニカルでありながら、実在主義的ともロマン主義的とも形容できるような奇妙なポジショニング(シニカルな態度をとりつつベタな感動を指向するポジショニング)が成立する。

なぜ2ちゃねらーは「藁(わら)い」ながら「没入」するのか? http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20050306

これでいくと、①→②の70年代にマジからネタへの遷移があり、さらには④90年代以降にネタとともにベタへ遷移しています。ボクはこれを「リアリティ」の変化として見ます。

リアリティの変化

マジの時代  正しさがあった時代

ネタの時代  正しさをアイロニカルに見る時代

ベタの時代  メタメタ…の中でアイロニーが薄まる中、イベント化、祭りによってネタがベタになる。

マジの時代とは、人々で共有する規範がまだあり、懸命に空気を読まずとも、規範に従うことが空気でありました。すなわり規範にリアリティであった。ネタの時代とは、規範に従うことが嘘くさいものとなり、それを疑うこと、規範にアイロニカルであることがリアリティです。




④生真面目だからベタになる


さらにアイロニカルな運動が加速するときに、リアリティはイベント化する。

ボクの好きな例にマルセル・デュシャン「泉」があります。美術作品といってただの便器をおく。これは美術とは魂だ、美の追究だ、などの「末端」を排除し、美術館というシチュエーションが「美術とはなか」を支えていることを暴露します。

ここにまもう一つ意味があって、「出オチ」であるということです。「美術作品といってただの便器をおく。」ことで完結します。もはや作品の鑑賞する深みなどなにもありません。これは「美術作品のイベント化」です。現代芸術は「出オチ」化、イベント化に向かいます。 TV番組のバラエティ化、街のイベント化、劇場化などもこの流れにあります。現代のリアリティはじっくり物語るにリアリティがもてず、ダイナミズムに求められています。

このようなイベント化で成功したのが、古くは「おにゃん子クラブ」、最近ではモーニング娘。ですね。あれらはアイドルのパロディであり、末端の物語を排除し、シチュエーション重視のイベント化です。モーニング娘。2ちゃんねる(の「モー板」の活況)とリンクした最初でしょうか。

[議論]続  オタクであることはなぜ恥ずかしいのか http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20060525

イベント化したリアリティとはアイロニカルなまなざしが希薄化したベタなものになる。北田言う「ロマン的な対象(ナショナリズム「反市民主義」)」であり、嫌韓、小泉支持など。宮台はこのような傾向を「ヘタレ」と呼びます。

これはもはや安定した空気が保たれない中で、「①生真面目型」であるから宙吊りになります。その不安定さから容易にベタに感染するということでしょう。宮台はこれは、「オブセッシブ(強迫的)なアイロニスト」と呼びます。

「コンプレックスに浸された『困ったちゃん』がオブセッシブ(強迫的)な梯子はずし」に勤しむことで、「自己目的的なコミュニケーションの接続」の閉じを見せる。それが頭の悪い2ちゃん野郎の恥ずかしさです。この手の輩を頽落といわずして、なにをか頽落といわん(笑)。この頽落を、文脈依存性への鈍感さとして語ることもできます。・・・たしかに、対象をズラすて距離化したがる点では、いまの若い人たちはアイロニカルな戯れが好きになったような見えます。でもそうした動機を支えるオブセッシブ(強迫的)な社会的文脈については鈍感です。だから、ズラす自分からズレることができず、自分をズラそうとする他者に対して過剰に防衛的になる。はたから見ると、そのヘタレぶりは恥ずかしいほど明確です。(宮台)

ヘタレ化するポストモダン http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20051029




⑤ネットがリアリティをベタへ変容させる


このようなアイロニカルな運動の加速は、ネットの普及が促進している面が高いでしょう。

ネットはコピペ世界であり、デリダの反復可能性よろしく、コンテクストを読み、貼り付けるというコンテクストの操作を容易にした。これは統一した主体像を散乱させると悪くいわれたりするが、ディスコミュニケーションをコミュニケーションする」というウィルス的逞しさの前では、「散乱することを主体化する」とでもいえる、主体の自由につながるだろう。たとえば、知的になり、厨房になり、ネカマになりと、散乱を遊ぶという主体像を、すなわち現実(リアリティ)を作るわけだ。

なぜ現実(リアリティ)はネットに共鳴するのか http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20060515

たとえば友達に「僕は天才だ」という言われたときに、その場の状況、その友達の性格など知ってますから、「僕は天才だ」の真意がその場のネタだとわかります。しかしネットでは、いきなり、匿名の誰かが「僕は天才だ」と書き込まれたときに、その真意をわかりかねます。

ネットは空気が曖昧で、このような真意の誤解に溢れています。相手にわかってもらおうとマジに言うほど伝わらない。それは相手への過剰な攻撃性へ、そして炎上が多発しています。

だからもはやマジになりすぎないこと、ネタ的あることがネットの儀礼であるともいえます。2ちゃんねる「ネタにマジレスかっこ悪い」とはこのような意味です。かつての2ちゃんねる、そしてブログと理屈の世界ではネタが保たれていますが、それは容易に反復され発散します。そしてその速度がネットの全能感的興奮となり、そしてベタへの感染を促します。

この自由さはある意味で、全能的高揚感につながる。そしてネット上のリバタリアニズム指向はこのような高揚感からきている。さらにこのような全能的高揚感が、サイバーカスケードとよばれる疑似共同体を生み出すことはよく知られている。たとえばネットを中心に広がった「自己責任」論などにみられます。イラク人質バッシングあびるバッシング、嫌韓など。

自由でありながら共同体の形成という高揚感。これらは現実(リアリティ)の変化であり、そしてすでにネットのリアリティは、実社会のリアリティに共鳴していることは疑いえません。

なぜ現実(リアリティ)はネットに共鳴するのか http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20060515




■なぜ最近の若者は空気が読めないのか。 


⑥ネットは大きな「しゃべり場


世代論とともに、年代論もあるでしょう。空気を読むというアイロニカルな姿勢は、他者との距離を保ち続けること、本当の心を晒さないことですから、とても孤独なスタンスでもあります。だからどうしても誰かとマジに腹を割って話したいという思いがわくでしょう。

たとえば、NHK「真剣10代 しゃべり場をみて思うのは、思春期というのは、もっとも「正論」をマジに言える年代なんだと思います。

特に思春期の女子に顕著ですが、間違ったもの、不潔なもの、曲がったことなどを過剰に嫌悪します。それは、社会という実践に出る前で、よく練られた社会モデルを教えられ、社会がモデルのように割り切れると信じている段階であるということです。さらに生物学的に考察すると、思春期は親という古い秩序を反発するようにプログラムされた時期です。それによって、種は古い価値から新陳代謝し、生き残っていくのです。

NHKの『真剣10代 しゃべり場』のマジは、社会に出た者には正論である故に、青臭く、耳が痛く、ある意味で不快なものなのでしょう。

そしてボクはこのようなマジへの傾向は10代だけのものではなく、「思春期セカイ系と呼びました。

2ちゃんねる哲学板にいると、自分の不安を世界の不完全さと短絡させ、「世界が間違ってるから、悪いから、正しいボクは苦しくなる」的な言説の人が多々来る。思春期という、経験よりも知識(理想)が多いアンバランスな時期に、「なんで大人はこんなこと簡単なことがわからないのだ!」的なある種の全能感をともなってあらわれやすい。特に、引きこもり系の人に多いように思う。ボクはこれを「思春期セカイ系と呼んでいる。

「なぜ「思春期セカイ系なのか。」ttp://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20050727

「思春期セカイ系「生真面目」だから空気の宙づりの中で分かりあいたいとベタに向かう傾向といえますが、「ネットがリアリティをベタへ変容させている」というときに、ネットは全能感とともに人々を思春期的に向かわせている面があるのかもしれません。




⑦オタクという人間くさい人々


オタクは動物化アイロニーの消失し直接的快感へ向かう傾向)しているいう議論があります。しかしボクは、こんなに豊かで、おもしろく、複雑な作品を創造、享受するオタクが動物化しているというのは、信じがたいです。どうみてもオタクは動物化しているというよりも、豊かで、欲望的で人間くさい人々だと思います。

アイロニーは無意識的、反射的に働く」という意味で、オタクの趣向への判断が反射的であるからといって、アイロニーが消失し動物化しているということにはなりません。オタクの中で動物化という言葉が流通したのは、自分自身をもてあます動物化したい欲望」の強さからではないでしょうか。

そのような意味でも、オタクとは、懸命に空気を読もうとして、読めずに、あたふたする「生真面目型」な人々ではないでしょうか。このようなあたふたの先に空気読みを暴力的に遮断する「キレる」という行為があるでしょう。




⑧なぜオタクはモテないのか


オタクが「生真面目型」であるのは、オタクはモテないということと繋がっているのではないでしょうか。たとえば恋人と高級フレンチ店にいって、一つ一つの行為ににあたふたするよりも、全体の流れをわかって、余裕を見せいている男が頼りがいがあり、カッコいいでしょう。特に女性は(生きていくために)人間関係に敏感で、俯瞰的な(アイロニカルな)目線を持っていますので、様々な行為に対して、それよりも高い位置からの広い視野=メタ視線を持つことが包容力がある、頼りがいがあると感じます。

このようなことは、事前に情報を仕入れ、まめにチェックすることで乗り切れます。まさに「生真面目型」である電車男は実際にそうしていました。しかし事前に全てを予測することは不可能です。現実はいつも偶発的です。電車男は偶発的な出来事に遭わせて、ケータイで懸命に情報をしいれていましたが、それも限界があります。

そもそも空気とは、そこにある静的なものではありません。人々の関係の中でコミュニケーションを成立させよう。分かり合えるだろうという希望の上に成り立つ幻想です。だから空気を読もうとするその人はすでに空気の中にいて、その一部です。その人の行為が関係性をつくっています。空気を読もうとすることが空気を変化させます。それはイタチごっこの関係にあります。だからどこかで、「決断」を行い乗り切る必要があります。

決断といっても「糞真面目型」に空気を読めずにただ独善であることはモテないでしょう。モテ男とは、「チョイ悪」です。空気を読みつつも、読む限界において空気を破る決断を持つ「融通(ひねくれ)型」です。

モテることが必ずしも重要ではありませんが、現代において、「空気を読む」と単に「生真面目」にその場にあわせていくことだけでなく、そして「空気を読む」ことを放棄しキレるのでもなく、「空気を読む」ことにつかれてベタに徒党を組むのでもなく、どこかで空気を読みつつ、空気を破ることを「決断」する。「空気を壊すことを怖れずに、勇気を持って空気を作る」ということです。ボクはこれを「コンテクストサーファー」と呼ぶわけですが。




⑨なぜ最近の若者は空気が読めないのか。


長くなりましたが、では、「なぜ最近の若者は空気が読めないのか。」最近の若者はかつてのように「確かな空気」が崩れている故に、空気を読むことが求めらており、「生真面目」です。

「最近の若者は空気が読めない」というのは、「確かな空気」=大きな社会性にたいしてでしょう。「生真面目」な彼らのとって、もはや大きな社会性、たとえば「政府が格差社会を陰謀している」というような大きな物語などには、リアリティがなく、それは読んでいないのでなく、読んでいる故に積極的に遵守しないといえます。

彼らにとっては、もっと小さなコミュニティの複雑で、動的な空気を読むことにリアリティがあります。だからギャルでさえ、懸命なのです。そして「生真面目」であるが故に強迫的ベタに感染してしまいます。ベタへの感染=イベント(祭り)化によってしか、空気読みのジレンマから逃れられないからです。

なぜ明らかに胡散臭いオウムに若者がはまったのかも、生真面目な若者が空気読みのジレンマからベタ(胡散臭さ)に感染したと言われています。そしてオウムが様々な事件を起こしつづけたのも、胡散臭いにリアリティを保つためのイベント化であったのかもしれません。

このようなベタは、結果的には、「最近の若者は空気が読めない」姿勢にうつるのでしょう。それでもリアリティのイベント化はもはや止まらず、オウムも最後は自滅したように、どのような形であっても一つのベタに留まることは不可能です。もはや誰もが次々とダイナミックな空気の変化に巻き込まれざる終えないのです。