なぜエビちゃんはかわいいのか 「セレブ」の滑稽さ

pikarrr2006-06-01

「セレブ」の滑稽さ


最近、エビちゃんがブームである。ボクもかわいいと思うが、その「リアリティ」はなんなのだろう。はっきりいえばエビちゃんパチモノくさい。着せ替え人形のようで、「カラッポ」で、どこか過剰でつくりものめいている。そしてこの微妙な嘘くささこそがエビちゃん「リアリティ」を支えているのではないだろうか。それは、お嬢様、セレブというイメージである。

最近、「お金持ち」を紹介するテレビが流行りである。「お金持ち」は必ずしもお金をもうけることを第一目的に努力したわけではなく、結果的にお金が儲かった面があるだろう。もし自慢するならば、お金の額よりもそこへいたった、あるいは今も継続する努力、人生訓だろうが、TV番組は「お金があることが幸福である」へ還元して伝える。持ち物、自宅などを見ては「いくら?すげぇ〜!」を連発する。そしてその横で自慢げにヘラヘラする「セレブ」は滑稽である。

このようなTV番組をみて、僕たちはどこか「お金持ち」の胡散臭さを笑う。その胡散臭さとは、あたかもみなが同じ物質的豊かさを競う「セレブ」ゲームをしているように見せかけていることであり、「セレブ」が勝者のようにふるまうように「ピン留め」されている姿にである。




「お金で買えないものはない」


ホリエモン「お金で買えないものはない」といったとか、いわなかったとかが話題になったが、たとえば「お金で買えないもの」とはなんだろうか。形見の品、大切なプレゼント、小さいころの写真・・・これらは「愛」と関係する。それは「想像的なもの」であり、自分の一部であるものだ。それは分割不可能な「私」というものの一部であり、分割不可能である故に、交換できないのである。

しかしマルクスが商品の物神性といったのは、交換価値の曖昧さである。柄谷はこれを「暗闇への飛躍」と読んだ。そこになんらかの確かに価値基準があるわけでないのだ。交換できないものはずのものが交換されることに、商品の物神的な価値がある。本来なにものもお金で買える保証はないのであり、「お金で買えないもの」「お金で買えるもの」とに明確な差があるわけではなく、強度があるといえる。どの程度、強く自分の一部であるか。それはどの程度、欲望するか、である。




滑稽であることが「セレブ」である


現代における価値の多様化、変化が加速化されるときに、欲望は希薄化し、主体は散乱するといわれる。そこでは「想像的なもの」、自分の一部としての強度は失われる。逆説的であるが、それ故に、下流社会「競争社会」「セレブ」「お金があえばなんでも買える」が再浮上する。お金持ちであることが、物質的豊かさが、私を充足される幸福であるという神話が回帰する。

お金持ちが幸せでない、そんな神話は胡散臭いものだ、と笑いながらも、そのブームの中で、ボクたちはまた「お金持ちになりさえすれば幸せになる」ことに安心を求めている。そして胡散臭く、滑稽であることこそが、「お金持ち」のリアリティと転倒される。これは、叶野姉妹を出すまでもなく、「セレブ」は滑稽さで胡散臭いほどにリアリティがある。これがまたエビちゃんのリアリティである。そしてまさに、最近の下流社会「競争社会」への言及が隠蔽しているものである。




なぜネットではただで労働が行われるのか。


その対極において、なぜネットではただで労働が行われるのか、がある。ネットでは様々なものがただで手に入る。労働の成果がただで公開されている。労働の提供者が得ているものは、「まなざしの快楽」である。それは他者からの感謝であり、賞賛であるが、それは必ずしも実質的なものではない。それはそれは、「見られたい人から見られているだろう」という神性へと転倒されている。

このようなタダを享受する人の贈与への負債は、それが無数の人々に公開されていることで、「私にかかる負債はないほどに小さい」と見積もられる。そこには逆の意味で、「まなざしの快楽」(=みなが見ているだろう)が働いている。




下流問題とのま猫問題

この「まなざしの快楽」は、「お金持ちであることが幸せである」という商品交換(貨幣と商品)の世界においても働いている。価値とは、(まなざしの)他者がそれを求めているだろう交換価値によってなりたっている。「ネットのタダ」「商品交換」は、そこにある物神性(他者から欲望される快楽)において繋がる。

これは、下流問題とのま猫問題に対比できるだろう。下流が問題であるというときには、お金の物神性(まなざしの快楽)がまだ信じられている。またのま猫が問題であるときには、より多くに受ける神性(まなざしの快楽)が信じられている。これはどこに「リアリティ」を見出すかの問題である。