なぜ「VIPPERvsVIPブログ連合」は聖戦なのか 

pikarrr2006-06-02

「VIPPERvsVIPブログ連合」という聖戦


流行りは、「VIPPERvsVIPブログ連合」*1らしい。簡単にいえば、2ちゃんねるVIPネタを自分のブログでまとめて人を呼び、アフィリエイトなどで小銭を稼ぐのはけしからん、ということだ。(詳細はこのあたり*2*3

のま猫問題の再来といってもいいだろう。のま猫問題のときに、ボクはこれは宗教戦争だ」といった。

このような意味で、2ちゃんねらーにとってオマエモナー」は、単なる流行のフレーズ以上の特別な意味を持つ。

そしてモナーとはこのような最強神としての偶像化である。のまネコ問題とは、その神が「無断で」金儲けに使われたのであり、神聖な神への冒涜の意味がある。これはある意味2ちゃねらーにとっても宗教戦争なのである。そうこれは宗教戦争というネタであるが、またマジなのだ。

のまネコインスパイヤ問題はなぜ「戦争」なのか http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20050914

ネットはとても「自由」=自分勝手な世界と思われているが、ここで見せる面は「我々の象徴(モナー)を守れ!」という閉鎖的、村社会的、呪術的な世界である。




「ネット住人の共有財産」


ネットはそのはじめに、「タダであること」からはじまったとされるが、現在も「タダであること」が維持されるのは、ネット特有の特徴があるだろう。小さな労働力が容易に集まる世界では、塵が積もれば山となるが容易に実現される。それはオープンソースなどのソフトの開発だけでなく、情報全般が、小さな山が無造作に積まれて、いつのまにか山となっているのがネットの世界である。たとえば今回のまとめサイトもその一つの例である。

この塵の山は「ネット住人」「共有財産」である。だからネットの財産(塵の山)で、お金を稼ぐことは間違ったことであるというように、のま猫問題、最近ではVIPEERまとめサイト問題では、このような「共有財産」を一部の人間が搾取することへの反発である。

しかし「ネット住人」とは誰だろうか、「共有財産」とはなんだろうか。ここにはそのような明確なものがあるように、転倒されている。そしてこの転倒こそが、閉鎖的、「村社会」的な、呪術的な世界観である。




繋がりの価値化


このようなことを考える上で、「なぜネットにおいて人々がダタで労働するのか」を考えることが重要ではないだろうか。ネット上では、実社会労働以上の労働力がつぎ込まれている。このような労働者はどのような対価があるのか、「交通様式」がなりたっているのか。そのキーワードが「繋がりの社会性」である。

繋がりの社会性 http://ised.glocom.jp/keyword/%e7%b9%8b%e3%81%8c%e3%82%8a%e3%81%ae%e7%a4%be%e4%bc%9a%e6%80%a7

一般的な送り手の意図に着目すれば、「社会性」とはコミュニケーションとは送り手と受け手の間にある誤解の可能性を減らすためのルールやコンセンサスということになり、これを「秩序の社会性」と呼ぶ。一方、ともかくコミュニケーションが連続することが重視されるとき、これを北田は「繋がりの社会性」と呼ぶ。そこでコミュニケーションのフックになるのは、コミュニケーションの意味内容やメッセージではなく、感情的な盛り上がりや、形式的な作法といったコンテクストである。

ネットは不特定多数の繋がりを容易にする。ネットでは、実社会のようにただいることができない。いることはコミュニケーションする(繋がる)ことである。だからネットでは、「繋がり」が価値化し、「どれだけ」繋がっているかが重要視される。



まなざしの快楽


この「どれだけ」はなにか明確なものではない。あるいは繋がりを必ずしも求めていなくとも、ネットに入ることで「無意識」「繋がり」の価値化が作動している。これをボクは「まなざしの快楽」と呼んだ。

その対極において、なぜネットではただで労働が行われるのか、がある。ネットでは様々なものがただで手に入る。労働の成果がただで公開されている。労働の提供者が得ているものは、「まなざしの快楽」である。それは他者からの感謝であり、賞賛であるが、それは必ずしも実質的なものではない。それは「見られたい人から見られているだろう」という神性へと転倒されている。

なぜエビちゃんはかわいいのか http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20060601

そのためにネットは多くにおいて匿名の不特定多数であるにもかかわらず、なにか強力な内部=「村社会」があるように錯覚される。そしてこのような「村社会」への帰属意識というドライブが、最近ではWeb2.0と言われる、塵も詰まれば山となる(創発性)を可能にしている。そして「タダ」の世界の維持、かつての未開社会のような疑似的な「互酬」を可能にする「交通様式」を演出している。それが「ネット住人」「共有財産」である。

かつてブログで、ムラ社会モヒカン族の対立が語られたが、これらは「村社会」という内部の出来事である。この「村社会」の内部と差異化された「外部」とは、資本主義的実社会である。だからネット上では資本関係を排除する傾向が思想化されている面がある。




「内部」の共通財産を「外部」へ売り払うな


以下のように主張はとても「正しい」のだが、そんなことはわかっていながら怒っているのであり、問題の本質ではない。問題の本質は、「内部」の共有財産を「外部」へ売り払うな」ということである。

あまり理解されていないことだけれども、マスコミ報道の過半は情報の集約・整理・取捨選択によるもの。ウェブでは何かというと「一次情報に当たれ」といわれるし、私もそう書いてはきたのだけれども、現実問題、そんなことは不可能だというところに中間情報産業の存在意義がある。新聞のスクラップをまとめただけの雑誌とか、専門分野の世界にはたくさんあること、ご存知でしょうか? 

新聞のスクラップをまとめた雑誌は新聞社に著作権料を支払っているでしょうが、その新聞社が**研究所が無料で公開した**調査報告を記事にする際、お金を払うか? 当然、払いません。でもその新聞記事は有料で売られる。おかしい、と思います? 調査報告から面白そうな部分を抜き出して紹介する手間暇に対価を払ってもいいと私は考えますが、怒る人は怒るのかな。

中間情報産業への無理解 http://deztec.jp/design/06/05/29_information.html

中間情報産業は大きな内部(情報産業、あるいは産業そのもの)の一部である。中間を含めて、情報産業がなりたっている。しかしネットはその外部にあるのだ。だから情報産業からかってに収奪し、ネット内部へ広く、コピー&ペーストすることは容認される。それは、個人的な利益でなく、ネット内部のための行為である。

のま猫問題でのエイベックスの主張はぶっちゃけると「ネットは著作権アバウトのコピペの世界でしょ。おもしろければ良いんじゃないの?なんで君たちよはよくて、俺たちがやるとキレるの?だってエイベックスっていっても俺たち普段は2ちゃねらーみたいなもんだよ。仲間ジャン」ということではなかったか。エイベックスの社員がネットの住人であっても、情報産業へ流通させようとするときにそれは「外部」となるのである。

VIP系まとめサイトが情報をまとめ公開することは、内部のための行為である。しかしアフィリエイトで小銭を稼いだときに、それは共有財産を「外部」へ流通させた裏切り行為である。確かにこれは「のま猫」問題と比べると微妙である。アフィリエイトというシステムは内部と外部の微妙な位置にあるシステムである。しかしVIPPER「有罪」を突きつけたのである。




ネット住人は野蛮人へ回帰したのか


ボクはこのVIPPER「有罪」を偏狭な判断だというのは違うと思う。それは程度の問題でしかない。

創造性、そして著作権を重視するなら、ネット住人は外部(資本社会)からの安易なコピペ(収奪)を止めるべきである。しかし奪うのは歓迎され、奪われるのには反抗する。これはとても都合のよい考えである。しかし呪術的な神性によって支えられているネット社会では、内部が重要視しされるのである。

今回のVIPPERの「有罪」を偏狭な判断だと考える人も、「「内部」の共通財産を「外部」へ売り払うな」という思想の元にあり、それはそのときに立場、程度の問題でしかない。外部(資本社会)からの安易なコピペ(収奪)を禁欲する、たとえばYouTubeのTV番組のコピペさえも問題視する人のみが、VIPPERの判断は偏狭だと言うべき事である。

ではネット住人は野蛮人へ回帰したのだろうか。マルクスは、資本社会における商品の呪術性とそれを元にした資本の収奪を問題にした。ネット社会の転倒とは、このような資本社会に内在する「まなざしの快楽」を元にした呪術性と同様のものである。

資本社会の「正しさ」が絶対の正しさではない。しかしボクたちはネットのみで生きられないし、生きていない。あるのは関係であり、立ち位置である。そして対立は内部と外部の「聖戦」として現れる。そして今後も続くだろう。