ネットと社会はなぜ「断絶」するのか その1 「ボロメオの結び目」としての社会

pikarrr2006-06-07

資本社会/ネット社会への二重帰属性


ネット住人は資本社会からみると「外部」にいる山賊、異教徒に近いのかもしれない。そう考えると様々な資本社会に対する反抗、略奪、悪態、排他がわかりやすい。しかし基本的に「彼ら」が資本社会内部の人間でもあることを考えると、この二重帰属性はとても不思議である。




資本社会の貨幣価値への還元作用


資本社会を支える貨幣交換という「交通様式」は、「象徴的」システムである。たとえば「人間の平等」貨幣経済の産物であるといわれる。紙である貨幣が価値を持つこと、「人間の平等」など、それらは資本社会内部の無意識(象徴界)の信頼によって支えられている幻想である。

しかしこのような象徴界への参入は精神分析では去勢と呼ばれ、「想像的なもの」を禁止する。とくに資本社会においては、「想像的な」思い入れ(質)は貨幣価値という量へ還元され流通される。ボクたちが質を重視し、「お金で買えないものがある」といっても、この「象徴的な」網に(無意識に)からめとられる。生命の危険がある病になった大金が必要なのであり、命も貨幣価値で図られているのだ。

しかし「同じ機能をもつバックでも高価なエルメスを求めるのか。」というように、必要(使用価値)以上のものに価値を見出すという不可思議な傾向をもつ。マルクスはそれを交換価値という幻想として示した。

これは抑圧された「想像的なもの」の回帰ではないだろうか。エルメスの価値とは他者からの賛辞であり、それを賛辞する価値の内部にいるという実感である。商品を媒介にして他者との繋がろうという欲望であり、「想像的な」質の取り戻りである。ボクたちがよりもとめているのは「想像的なもの」であり、「想像的」他者との関係=「愛」であるからだ。




「平等」という抑圧


資本社会では貨幣価値への還元という強い「象徴的な」作用が働く社会である。たとえばボクたちが当たり前と思っている「人間の平等」は、貨幣経済の産物である」といわれる。それ以前、封建社会、未開社会では、人間が平等でないことが当たり前だった。

資本社会が「平等」を重視するのは、貨幣による交換システムがとても「不安定な」ものであり、そのバランスを保つためには、「平等」によるシステムの活性化が必要であるからだ。たとえば著作権などの知的所有権が重視されるのもこのためである。封建社会などのようにシステムとして格差の入れ替え可能性が排除されていては、貨幣システムは作動しない。だれにとっても1万円は1万円の価値が保証され、それが商品と交換可能であるという「平等」への信用が内部を維持している。

そしてこの「平等」そこが、「想像的な」質を貨幣価値に還元し流通させるという抑圧の一面でもあるのだ。




ボロメオの結び目としての社会


たとえば柄谷は未開社会、封建社会、資本社会への変化を、互酬(贈与と返礼)、再配分(略奪と再配分)、商品交換(貨幣)という「交換様式」で分類している。(「世界共和国へ―資本=ネーション=国家を超えて」 柄谷行人 ISBN:4004310016

どのような社会でも、ラカンの三界、「象徴的なもの」「想像的なもの」「現実的なもの」は、ボロメオの結び目としてどれも欠くことができないとして次元として作動している。

たとえば未開社会とは小さな「内部」であり、資本社会に比べて顔と顔のつきあい、「想像的な」関係を元に「内部」が作動している。「想像的な」関係とは良性では愛であるが、悪性であると憎しみである。これは容易に転倒する。

そのため、それを抑止する「象徴的な」秩序が必要とされる。未開社会での「象徴的な」「交通様式」は、資本社会の(貨幣)交換に対して、互酬(贈与と返礼)システムである。無償で与えることで、その負債が循環していく。たとえば現在でも家族では交換は貨幣ではなく、「水くさい」などと互酬(贈与と返礼)で行われる。子は親に養われ負債を追うことで、親を尊敬するというように、親子という社会会関係(上下関係)を規定する「掟」として作動し、過剰な「想像的な」関係を抑止する。

未開社会が維持されるのは、小さな「内部」群が大きな「内部」として取り込まれず、それぞれ個別に維持される限りである。そして小さな「内部」にとって他の小さな「内部」「外部(現実的なもの)」であり、互酬(贈与と返礼)システムや(貨幣)交換ではなく、争いによる「略奪」という「交換様式」が作動する。

争いが頻繁におこり、大きな「内部」として作動したときに、封建社会へ向かう。そこでには支配者と被支配者による再配分(略奪と再配分)が行われている。




資本社会の「外部(現実的なもの)」からの略奪


柄谷によると、「貨幣交換は共同体の間に起こる」封建社会という「大きな内部」同士に秩序ある交通が行われるときに、「より大きな内部」として資本社会が作動する。このような「より大きな内部」を安定に作動させるために、資本社会は知的所有権保護などにも見られるように「略奪」を禁止する。

しかしこれも正常に作動し信頼が保たれた資本社会「内部」においてのことである。資本社会は拡大することで安定を保つシステムであり、「外部」からの略奪がなければ作動しない。資本社会「外部(現実的なもの)」とは、一つは資本社会化していない社会であり、もう一つは自然である。大量生産や、グローバル化の名のもと、「外部」からの略奪が進行する。




純粋略奪と「剥き出しの生」


中野は「貨幣と精神―生成する構造の謎」ISBN:4888489785)の中で、ラカンの三界、「想像的なもの」「象徴的なもの」「現実的なもの」を、贈与−商品交換ー純粋贈与と対比させている。未開社会など小さな「内部」で行われる贈与は対面的「想像的もの」であり、資本社会などの「より大きな内部」で行われる商品交換は知らない者でもルールにのっとって行われる「象徴的なもの」である。

純粋贈与とはまったく見返りのない贈与であり、たとえば自然の恵みである。しかしこれはまた自然という純粋な「外部(現実的なもの)」からの純粋略奪とも言えるだろう。

ジョルジョ・アガンベン「開かれ―人間と動物」ISBN:458270249X)の中で「人間/動物、人間/非人間といった対立項を介した人間を産出する歴史化の原動力」としての内部(人間)/外部(動物)の境界生成を「人類学機械」として示した。*1

このように「外部(動物)」におかれた人はホモ・サケル(剥き出しの生(=主権権力の外に位置する者))」ISBN:4753102270 )であり、「動物」からの略奪であり、自然からの純粋略奪と考えることができるだろう。

フーコ-の「生政治」、そして「環境管理権力」のように、成熟した資本社会では、人々は「動物」のように管理されることが警告されている。すなわち純粋贈与(略奪)される「外部(動物)」は、内部に生まれると警告されている。

これら未開社会と資本社会の三界は以下のようになるだろう。

  未開社会 資本社会 
想像的(愛)  身内の関係 消費の過剰 
象徴的(秩序)  互酬(贈与と返礼)
掟  
商品交換(貨幣)
道徳、法 
現実的(外部)  他の未開社会  資本社会外
自然と「動物」

*1:なぜ「倫理的な開かれ」は困難なのか?http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20051128