ネットと社会はなぜ「断絶」するのか その2 愛と憎しみのネット社会
愛と憎しみのネット社会
ラカンの三界、「象徴的なもの」、「想像的なもの」、「現実的なもの」をネット社会に展開すると、ネット社会の特徴は、疑似的であるが、対面的な「想像的な」関係が容易になったが特徴である。未開社会のように顕名ではなく、多くにおいて匿名であるが、懸命にブログなどで自己を紹介、誇示し、「疑似的な顕名」によって、「想像的な」関係が目指される。
「想像」関係の良性=愛と悪性=憎しみの裏腹さは先に述べたが、これは容易に転倒しやすいことが炎上などの傾向で、ネット社会で顕著に表れることがわかる。それは「繋がり」重視の表れでもある。
資本社会的秩序が作動しにくいネット社会
このような「想像的な」関係への過剰性は、ネットが疑似対面的であるだけでなく、そこにそれを抑止する「象徴的な」秩序が働きにくいことによるだろう。
ネット社会といっても基本的には資本社会の一部であり、資本社会/ネット社会という大きな内部として作動している。たとえば「会社の顔」と「家庭の顔」というような、二面性と考えることもでき、資本社会のルールが適用される。
だからそこに道徳、法は働いており、行き過ぎたものは規制される。しかし匿名が容易であったり、国内法がグローバルなネットでカバーできないなどのテクニカルな理由から、弱い拘束とならざるおえない。資本社会の本質である貨幣システムが作動しにくいのも、このような弱い秩序=セキュリティの不安からの面が大きい。
資本社会とネット社会の「断絶」
しかし単にテクニカルな問題だけでなく、資本社会/ネット社会という大きな内部には強い「断絶」があるように思う。
ネット社会上の「想像的な」関係(=繋がり)が重視される理由は、資本社会の「想像的なもの」を貨幣価値という量へ還元され流通されるという強い象徴的な関係との反動して表れている面があるのではないだろうか。資本社会で失われた「繋がり」、「心の交流」であり、「愛」であり、「ぬくもり」を求めて、人々はネット社会へやってくる。
そしてネット社会では外部から奪われるには敏感であるのに、外部(資本社会)の著作権を無視し、外部から奪うことはむしろ歓迎される。これは対等な関係でなく、とても都合のよいものである。ネット社会「内部」への帰属意識が強いほどに、資本社会が疑似「外部(現実的なもの)」の位置に置かれ、疑似「純粋略奪」が作動しているのではないだろうか。
それは「資本社会からみて」、ルールを守らずに、誹謗中傷、著作権問題など反抗、略奪、悪態、排他行動として表れる無法地帯である野蛮な場所として言われる所以である。
ネット社会という秩序
そしてこれは「ネット社会からみると」ネット社会は、無法地帯でなく一つの「内部」として作動していることを意味する。
たとえばこのような傾向は、ネット上の「空気読め」というフレーズにも表れている。日常生活では「象徴的なもの」として場の秩序を保つ「空気」は、無意識に作動しているために、そこに「空気」があることを気にしない。たとえは人混みをぶつからずに歩くくというレベルで、人々は気がつかないうちに従っている。
しかしネットではテキストのみのコミュニケーションであり、「空気のように」無意識であるはずの場の秩序を保つ働きが、意識上にのぼってきて、「空気読め」というフレーズが多用され、内部のコミュニケーションを成り立たせために、その場その場で、空気を読む努力が強いられる。
そのために2ちゃんねるを中心に、「ネットでは空気を読むことが難しい」という空気を読む」が求められる。「ネタにマジレスかっこわるい」とは「ネット上では全てがネタでしかないことを知り、コミュニケーションすること」ということである。
このような傾向はネット上の秩序の形成の困難とともに、それでも「内部」として作動しようとしていると見なければならない。たとえば「のま猫」問題でも、「VIPブログ」問題でも行われているのは「内部」はいかにあるべきか、という議論である。
資本社会からみると、無法地帯であり、野蛮な場所であっても、内部では一概にどこからでもかってに略奪すればよいということではなく、そして内部への帰属意識が強いほどに「内部」なりの秩序維持が試みられているのである。
たとえばボクは「電車男は本当に「エルメス」に恋をしたのか?」と言った。
ネットという内部作動装置
「電車男」の感動とは、内部にいることの共有である。そしてこの内部を作動させているのは、エルメスを女神とすること、すなわち外部に疎外し超越させることである。「転倒」において神性は捏造される。しかしエルメスは一つのメタファーであるといえる。それは女性全般を意味し、さらには社会そのものを指す。
あるいは、ネット上に氾濫するヘイトスピーチも同様な構造をもつと言える。ネット上などのヘイトスピーチは、そこに差別する外部を想定することを意味する。それによって、場の緊張をやわらげ、発話者たちが内部にいることを強調する。そしてこのような「転倒」においてたとえば「朝鮮人は〜だ。」などの神話が捏造される。
そもそもネット上はコミュニケーション不全の場である。このような場において、多くにおいて社会的な他者(有名人など)を外部として攻撃し、場の緊張を緩和し、内部として作動させる。繋がりを強化する。そしてネット上はうわさ話(神話)の宝庫である。
「2ちゃんねる」、「2ちゃんねらー」の意味とは、「社会」と差異化した外部(すなわちそれはまた社会を外部とした「内部」)である。
なぜ「空気が読めないことが最も嫌われる」のか? http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20050825
「電車男」はネット住人指向が強い。そのための本音はネットコミュニケーション上にあり、その繋がりながり(「想像的な」関係)に自分の居場所を見出したのである。そのときエルメスは「外部(現実的なもの)」=資本社会にいる得体の知れない他者である。そして「電車男」たちは資本社会のエルメスを略奪することを画策したのである。それはネット内部の維持が重視されている。
「のま猫」問題も同様に2ちゃねらーはエイベックスを「外部」におき、その略奪を問題にしたのである。自分たちがエイベックスの歌を無断使用したにもかかわらずである。
「なぜネットではただで労働が行われる」
さらにその傾向は、「ネットではただで労働が行われる」ということに表れている。そこで働いている「象徴的な」秩序は、未開社会的な「小さな内部」の交換様式である、互酬(贈与と返礼)に近いだろう。
その対極において、なぜネットではただで労働が行われるのか、がある。ネットでは様々なものがただで手に入る。労働の成果がただで公開されている。労働の提供者が得ているものは、「まなざしの快楽」である。それは他者からの感謝であり、賞賛であるが、それは必ずしも実質的なものではない。それはそれは、「見られたい人から見られているだろう」という神性へと転倒されている。
このようなタダを享受する人の贈与への負債は、それが無数の人々に公開されていることで、「私にかかる負債はないほどに小さい」と見積もられる。そこには逆の意味で、「まなざしの快楽」(=みなが見ているだろう)が働いている。
資本社会とネット社会の「断絶」
先に表にネット社会を加えると以下のようになる。資本社会では特に強く「象徴的な」秩序が働き、「想像的な」関係を抑圧するのに対して、ネット社会では、「想像的な」関係(繋がり)を強く働き、「象徴的な」秩序は疑似互酬、ゆるい資本社会ルール、空気読むと、弱いものとなる。そして「外部(現実的なもの)」におかれ、資本社会とネット社会は(疑似純粋)略奪として「断絶」する。
未開社会 | 資本社会 | ネット社会 | |
---|---|---|---|
想像的(愛) | 身内の関係 | 消費の過剰 | 疑似対面会話 |
象徴的(秩序) | 互酬(贈与と返礼) 掟 |
商品交換(貨幣) 道徳、法 |
疑似互酬、 ゆるい資本社会ルール 空気読め |
現実的(外部) | 他の未開社会 | 資本社会外 自然と「動物」 |
資本社会 |