ネットと社会はなぜ「断絶」するのか その4 透きとおった「帝国」
「生権力」と疑似純粋略奪
成熟した資本社会の新たな権力として、フーコ-の「生権力」、そして「環境管理権力」が指摘されている。アガンベンはアウシュビッツで殺されたユダヤ人たちを「ホモ・サケル(剥き出しの生)」と呼んだが、「生権力」は人を「剥き出しの生」のように管理する方法である。
環境管理型権力・・・人の行動を物理的に制限する権力、多様な価値観の共存を認めている。ネットワークやユビキタス・コンピューティングは、よく言えば、多様な価値観を共存させる多文化でポストモダンなシステム。しかし悪く言えば、家畜を管理するみたいに人間を管理するシステムでもある。
「生権力」・・・近代以前の伝統的な権力、たとえば王の権力は、人を恣意的に殺すことができる能力でした。それに対して、近代的な権力は、人間の生、つまり人が健康的にいきていくということに介入する。生かす権力。「福祉国家」的な体制。
自由を考える 東浩紀・大澤真幸(2003) http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20040515#p1
ジョルジョ・アガンベンは「開かれ―人間と動物」(ISBN:458270249X)の中で「人間/動物、人間/非人間といった対立項を介した人間を産出する歴史化の原動力」としての内部(人間)/外部(動物)の境界生成を「人類学機械」として示した。
このように「外部(動物)」におかれた人は「ホモ・サケル(剥き出しの生(=主権権力の外に位置する者))」(ISBN:4753102270 )であり、「動物」からの略奪であり、自然からの純粋略奪と考えることができるだろう。
ネットと資本社会はなぜ「断絶」するのか その1 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20060607
そして「生権力」化する資本社会の「内部」に対抗して、資本社会を「外部」とする「小さな内部」を生みだす小さな「人類学機械」が作動している。この大きな「人類学機械」と小さな「人類学機械」の「断絶」が、互酬でもない、交換でもない、新たな「疑似純粋略奪的「断絶」」という交通様式である。
「透きとおった悪」
このような状況は、ボードリヤールは「透きとおった悪」(ISBN:4314005521)でも示されている。それが「悪」であるのは、資本社会「内部」から見た場合である。
「小さな内部」、「小さな闘争」だからと舐めてはいけない。なぜなら闘争とは、大小にかかわらず、「私とはなにものである」をかけた、すなわち生死をかけた闘争であるからだ。主体が主体であるのは、内部に帰属することによって可能になる。私は何ものであるか、ということは、多重な内部への帰属による、他者との差異によるのである。
このような「歴史の終わり」に対して、ボードリヤールは「透きとおった悪」(ISBN:4314005521)の中で、「外部」がなくなるわけではない。「大きな内部」では自己免疫性が低下し、「外部」がウイルスのように進入してくると言った。その例として、フーリガン、エイズ、コンピューターウイルスそしてテロリストなどを上げている。
このような状況は、まさにボクがいう、「歴史の終わり」の後の「小さな内部」による「小さな闘争」に対応させることができるだろう。オタク、引きこもり、コギャル、ニート、2ちゃねらーなどは、「大きなゆるい内部」からみれば、「歴史の終わり」の後に現れたウイルス化した「不気味な他者たち」である。
2ちゃんねるでも顕著であるように、社会=「大きな内部」ではおとなしい住人であるが、2ちゃんねる上では、「大きな内部」を否定する「不気味な他者たち」として登場する。それが「透きとおった悪」の姿である。
なぜ「空気が読めないことが最も嫌われる」のか? http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20050825
崇高な略奪
ネットにおいては、「象徴的なもの」が作用しにくく、「資本の追求が重要ではない」という「内部」への動きが加速し、大きな「人類学機械」と小さな「人類学機械」の「断絶」が表面化する場である。
たとえば「のま猫」問題、「VIPブログ」問題のように、資本社会(象徴的なもの)からの抑圧が働くと、2ちゃんねらーという強い内部(想像的なもの)が浮上し、「断絶」が生まれる。そこでは、「象徴的なもの」は疑似的な「外部(現実的なもの)」へ排除されるために、「想像的なもの」の利己的な論理が働き、資本社会側からは不条理な「野蛮な」攻撃としてうつる。
またボードリヤールのいうように、このような「断絶」がすでに社会のあちこちで表出している。たとえばオウム事件であり、911NYテロである。「小さな内部」にとって「外部(資本社会)」の成員とは、「剥き出しの生」、非人間、動物なのである。そしてテロ行為は「外部」でももっとも大切とされる「生」を純粋略奪する行為であり、それ故に「小さな内部」では崇高な行為なのである。
「大きな内部」内の「断絶」
このような状況を、大きな「内部」として示す。「象徴的なもの」は商品交換(貨幣)の重視、市場原理主義的に働く。それはグローバル化である。 「想像的なもの」は、「小さな内部」への帰属意識に求められる。そしてもはや大きな「内部」には「外部(現実的なもの)」はなく、 「想像的なもの」と「象徴的なもの」、 小さな「内部」と資本社会の疑似純粋略奪的な「断絶」として表れる。それは二重帰属であり、明確な「断絶」でなく、「大きな内部」の中で 「透きとって」いる。
資本社会 | ネット社会 (小さな内部) |
大きな内部 | |
---|---|---|---|
想像的(愛) | 消費の過剰 | 疑似対面会話 | 強い「小さな内部」 |
象徴的(秩序) | 商品交換(貨幣) 道徳、法 |
疑似互酬、 ゆるい資本社会ルール 空気読め |
商品交換(貨幣)の重視 市場原理主義 |
現実的(外部) | 資本社会外 自然と「動物」 |
資本社会 | 疑似純粋略奪的な「断絶」 「想像的なもの」と「象徴的なもの」 小さな「内部」と資本社会 「マルチチュード」と「帝国」 「透きとった社会」 |
透きとおった「帝国」
さらにはこの「大きな内部」内の「断絶」とは、アントニオ・ネグリ の「帝国」(ISBN:4753102246)と「マルチチュード」にも対応するだろう。
やはりネグリの<帝国>は巨大な資本制システムそれ自体でとらえた方がいいです。そのシステムは、国家や国民という枠を越え出たものです。<帝国>というのは、一種の機械装置だと考えたらいいのです。
「帝国」のシステムの最大の問題は、それが個々人を寸断していくところにあるわけです。個々人を機械の一コマに固定して連帯させないようにする。
このような形で資本制システムが全面的に開花した<帝国>においては、プロレタリアートがブルジョアジーと対決して闘うという構造は、事実上もはや通用しないのです。・・・このシステムを破壊する存在は、具体的に誰々であるという形ではつかめないのです。あるときはこういう人たちであり、またあるときは別のこういう人たちであるという具合に、その場合その場合に応じて特定はできても、一般的には特定できない。
しかし、確かなことは、システムの中でつくられながら、そのシステムの中から排除されていくような人たちは常にいつのです。こういう人たちの総体を、ネグリはとりあえず「マルチチュード」と呼んだのです。
「マルクスを再読する−<帝国>とどう闘うか」 的場 昭弘 (ISBN:477270423X)
ネグリの「帝国」では、マルクス主義的に「帝国」を克服するものとして「マルチチュード」の登場が描かれるが、疑似純粋略奪的な「断絶」とはもっと混沌とし、「透明な」ものである。それは「想像的なもの」と「象徴的なもの」の「断絶」であるが、「想像的なもの」と「象徴的なもの」は「ボロメオの結び目」によって決して離れることができない二重帰属性としてある。