ネットと社会はなぜ「断絶」するのか その5 純粋略奪の快楽

pikarrr2006-06-11

セカイ系という「断絶」「純粋略奪の快楽」


東浩紀セカイ系象徴界の喪失」と呼んだ。

哲学者の東浩紀は、ほぼ同じ状況を指して象徴界の喪失」と表現する。・・・東氏は、たとえばアニメ作品新世紀エヴァンゲリオンほしのこえなどに顕著な傾向として、登場人物の学園生活といった近景すなわち想像界と、世界破滅の危機といった無限遠の彼方にある遠景すなわち現実界とがいきなり短絡されがちである点を指摘する。

心理学化する社会」 斉藤環 (ISBN:4569630545

たとえば機動戦士ガンダムの敵(ジオン軍)は、言葉(イデオロギー)をもち、物語、背景がある。これはアムロたちとジオン軍はひとつの「内部」内の対立である。しかしセカイ系では敵が「見えない」ということに特徴があり、敵もまた同じ人なんだというヒューマニティーは排除されなければならない。

たとえばエヴァンゲリオン使徒最終兵器彼女ほしのこえの敵。敵はただ漠然と「不気味な者」として迫ってくる。セカイ系では、「想像的なもの(ボクたち)」「現実的なもの(敵)」の短絡の前に、まず「外部(現実的なもの)の産出」に特徴がある。

そして産出された「外部(現実的なもの)」「想像的なもの(ボクたち)」に短絡したとき、ボクたちにとって敵は「外部」であり、敵にとってはボクたちは「外部」である。そして純粋略奪しあう「断絶」が生まれるのである。

セカイ系の快楽の一つにその短い殺戮シーンにある。敵はただボクたちから「略奪」する。だからボクたちは敵を「動物」のようにただ殺戮する。この「断絶」「純粋略奪の快楽」が生まれる。




「外部(現実的なもの)の産出」


ボクは、「大きな内部(帝国)」「象徴的なもの」「想像的なもの」の対立として示した。しかしこの本質は「現実的なものの産出」にある。

システムには必ず「外部(現実的なもの)」が必要とされる。しかし大きな「内部」「帝国」)には、もはや「外部」が存在しない。だから「疑似純粋略奪的な対立」とは、疑似的に「外部(現実的なもの)」を産出する運動としてある。

これは閉塞する社会にダイナミズムを与え続けるための自己言及的な運動である。強く「内部」を求めることは強く「外部」を求めることである。

セカイ系の物語は、「大きな内部(帝国)」で喪失している「外部の産出」、そして「純粋略奪の快楽」を疑似的に補完しているといえる。しかし「大きな内部(帝国)」は一種の機械装置として作動し続け、象徴界の喪失」はない。だから「象徴的なもの」「想像的なもの」「断絶」によって「外部」が産出されている。




「断絶」はどこに見出されるのか


「小さな内部」の成員は、その「純粋略奪」行為によって、「小さな内部」に対して「想像的な快感(強い絆と自己充実)」を味わいながら、「現実的な快感(純粋略奪の快楽、閉塞からの解放感)」を味わうのである。

これは未開社会の快楽、集団的熱狂に近いだろう。「小さな内部」の神に捧げる崇高な行為である。そしてテロリストにとっては崇高は略奪である。さらにこれを多発する短絡的な少年犯罪につなげるのは強引だろうか。ただ殺戮する快楽。

資本社会はこのような快楽を祭りなどの一部にのみ抑制し、禁止してきた。しかし人間の「リアリティ」はいつもここにある。「純粋略奪の快楽」とはフロイト「欲動(リビドー)」である。「欲動(リビドー)」は社会の中で抑圧され、去勢される。

しかし人間の生きる力であり続ける。フロイトは欲動が「昇華」され、社会に貢献する創造活動の元となるといった。なにかを創造するとは、「外部(現実的なもの)」からの(アイデアが)おりてくる純粋贈与であり、略奪の快楽であると考えられるだろう。

だから問題は、「純粋略奪の快楽」「欲動(リビドー)」そのものではなく、「大きな内部(帝国)」の閉塞によって、その出口を見出すのが難しくなっていることである。「断絶」はどこに見出されるのか。

オタクの妄想(セカイ系)であり、ネット社会は、「大きな内部(帝国)」「断絶」することで、疑似的に「外部の産出」「純粋略奪の快楽」をうむ「小さな内部」として作動している。著作権の問題などあるが、これらは創造性を促進する比較的良性な「昇華」といえるだろう。




「キレる」の社会的な全面化


たとえば格差問題とは内部内に上流と下流の固定化する「対立」にある。これはかつてのプロレタリアートブルジョアジーの対立を再現する。しかし「若者が格差に怒らない」といわれるとき*1、格差がないということでなく、「内部内の対立」から「内部間の断絶」への移行しているのだ。抑圧されたものは「怒る」のでなく、「キレて」いるのである。

かつての若者は怒っていた、という。そこには主張すべき「正義」があった。「正義」に対する信頼があった。・・・そして、場はより繊細になった。分かりあえないことを知っている。僕のことはだれにもわかってもらえないことを知っている。だからコミュニケーションの場で、その場限りの場を繕う。繕うことに疲れ、コンビニ、ファーストフードなど他者回避する。そして引きこもる。オタクる。それでも、集まらなければならない場での不安は、誰かを生け贄に外部へ排除し(イジメ)、内部という場を繕う。

だからマジで「怒る」人は、このもろさがわからない、そのべたさ、天然は、頭が悪いのであり、排除され、笑われ、いじめられる。格好悪く、馬鹿で、排除されるのだ。だからボクたちは「怒らない」のだ。

怒ることに尻込みしつづけた結果、抑えきれなくなったときに、もはや場も、「正義」も糞もなく、我を失い、ただただ感情的にキレるしかない。「怒る」のはコミュニケーションであるが、「キレる」はコミュニケーションの破壊であるということだ。

なぜ若者は怒らずにキレるのか? http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20060412#p1

しかしこの「怒る」「キレる」の差は、「大きな内部」からみた見方だろう。たとえばテロ行為はテロ集団という「小さな内部」では論理的な理屈をもつ「怒り」である。その「怒り」「大きな外部(帝国)」からみると、利己的で、不条理なものであり、「キレて」いるとしか思えないのである。

たとえば中国や韓国の排日デモの見えなさもそこにあるのではないだろうか。彼らの親日の面を良く知っている。しかし突然「怒る」ときに、ボク達には彼らは「怒って」いるより「キレ」ているようにしかみえないのだ。そしてこの「断絶」をもとに日本の嫌韓などのナショナリズムは台頭しているのだろう。それは「外部(現実的なもの)の産出」である。

「キレる」の社会的な全面化とは、このような「断絶」の多発をもとに考えなければならないだろう。だから格差社会に怒らない若者」はいつもは「大きな内部」の成員として溶け込みながら、どこかの「断絶」「キレて」いるのかもしれない。それは、たとえば、のま猫問題や「VIPブログ」の問題、あるいは多発する短絡的な若者の犯罪などで「透き通った悪」として、表出しているのかもしれない。
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*1:なぜ若者は怒らずにキレるのか? http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20060412#p1

*2:画像元 http://www.dekoboko.org/