ネットと社会はなぜ「断絶」するのか その6 終わりなき「断絶」

東浩紀ポストモダンの二重構造」


「大きな内部(帝国)」の秩序維持としての権力は「規律訓練型」から「生権力型」へとむかう。「規律権力型」は内部の人々を教育し、内部秩序のための正しい人とする。しかし「生権力」は人々にどこで作動しているかわからない。それは「透きとおった権力」である。そして人々を「内部」の者としてでなく、あたかも「動物」のように、「外部」として扱う。

それは必ずしも悪いことではない。多くの面で、人々はそのように扱われることを望んでいる。そしてそのような「大きな内部」に溶け込むのである。

これは、東浩紀が示したポストモダンの二重構造」に近いかも知れない。*1

情報社会の二層構造(ポストモダンの二層構造」

東浩紀ised@glocomでの中心的なコンセプト。価値中立的なインフラ/アーキテクチャ(市場)の層と、価値志向的なコミュニティ(共同体)の層に大きく分けられることを示す。・・・ポストモダン社会においては・・・必要最低限の共通サービス(セキュリティ)の上に、消費者たちは自由に多様なコミュニティ・サービスを選択する、という二層構造を理念型とするようになる。中央集権的権力はそこでは機能せず、法・経済・政治などを統合してきた国家システムは弱体化する。

この図のもうひとつのポイントは、インフラに繋がっていないフリーライダーあるいは「テロリスト」の存在です。これは、アーキテクチャにタダ乗りし、アーキテクチャを蝕む「脱社会的」な成員の存在と、それに対するポストモダン社会の厳しい対応を示しています。

ポストモダン社会は多様な価値観の共生を善としていますが、そのかわりに、共生の基盤であるアーキテクチャを蝕むものに対しては断固たる態度で臨みます。テロのことを考えれば分かりやすいと思いますが、実際には、この集団の範囲は拡大する傾向にある。

たとえばいまの日本では、僕がウィニート」と呼んだ若者たちなどは、このような危険集団と見なされ始めています。ポストモダン社会は、その構造上、多様性の裏側に必ず排除の動きを抱えているので、排除の対象が不必要に拡大しないように監視する必要がある。(東)

情報社会の二層構造 http://ised.glocom.jp/keyword/%e6%83%85%e5%a0%b1%e7%a4%be%e4%bc%9a%e3%81%ae%e4%ba%8c%e5%b1%a4%e6%a7%8b%e9%80%a0




東はなぜ「脱社会的成員」を例外的な存在としたのか


東の構造図(http://www.glocom.jp/ised/img/E2/slide/hazuma_PostModern2layer_large.jpg)を改訂する形でボクが考える「透きとおった大きな内部の断絶構造」図を示す。




東との違いは、東の構造が「脱社会的」な成員が「不必要に拡大しないように監視する」例外的な存在として示されているのに対して、ボクの示す構図は「脱社会的」な成員を日常的な存在として示している。この違いは小さいようで、実はかなり大きい。

東が「脱社会的」な成員を例外的な存在とするのは、東の動物化論」から来ているだろう。*2

2005年04月12日 メタと動物化と郵便的世界
「渦状言論」 東浩紀 http://www.hirokiazuma.com/archives/000135.html

僕の動物化論の基盤はここにあります。・・・無限のメタゲーム/伝言ゲームの囁き・・・のような状態では、もはや何を主張してもだれかよりはメタレベルだし、他方ほかのだれかにとってはネタでしかない。そして、このような混乱した情報環境においては、結局のところひとは動物的に生きるしかないのだし、実際生きている、というのが僕の考えなのです。

ひとびとが動物化するのは、世界が郵便的だからです。近代社会が作り上げた巨大な郵便局(大きな物語)はいまや壊れてしまい、ひとびとは、・・・無限の伝言ネットワークのなか、メタレベルの志向の宛先を見失ったまま、局所最適に基づいて動物的に生きるしかなくなってしまった。これが僕のすべての議論の中核にある世界認識です。

東の二重構造によって、小さなコミュニティの成員は環境管理権力に管理されるシステムとして収まっている。「内面(主体)の自由/身体の管理」という動物化によって「実際生きている。」だから「脱社会的」な成員は「不必要に拡大しないように監視する」例外的な存在におかれるのだ。




「断絶」の意味


それに対して、ボクが考えるのは、「想像的なもの」「象徴的なもの」「断絶」である。そして「断絶」によって、互いに相手を疑似的に「外部を産出する運動」である。

だから動物化とは、あくまで「大きな内部」側からみて、成員を「外部」へと排除することである「オタクが動物化している」というのは、「大きな内部」側から見て、オタクを「動物」のように扱うということである。そしてオタクという「小さな内部」からみると、オタクはとても人間くさい集団なのである。

しかしこの「怒る」「キレる」の差は、「大きな内部」からみた見方だろう。たとえばテロ行為はテロ集団という「小さな内部」では論理的な理屈をもつ「怒り」である。その「怒り」「大きな外部(帝国)」からみると、利己的で、不条理なものであり、「キレて」いるとしか思えないのである。

たとえば中国や韓国の排日デモの見えなさもそこにあるのではないだろうか。彼らの親日の面を良く知っている。しかし突然「怒る」ときに、ボク達には彼らは「怒って」いるより「キレ」ているようにしかみえないのだ。そしてこの「断絶」をもとに日本の嫌韓などのナショナリズムは台頭しているのだろう。それは「外部(現実的なもの)の産出」である。

ネットと社会はなぜ「断絶」するのか その5http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20060611

オタクは、あるいはネット住人は、(「大きな内部」からみると)動物化しているし、(「小さな内部」からみると)ムラ社会化しより人間臭いくなっているという二重性が「断絶」の意味である。だから東のいう「複数のコミュニティ」「脱社会的な成員」は別の存在ではなし、「不必要に拡大しないように監視する」例外的な存在ではない。それは東の立場は「大きな内部」側に見ているからである。




終わりなき「断絶」


「大きな内部」と融合する「小さな内部」は突発的にある「断絶」により「脱社会化」し、「透きとおった悪」として「大きな内部(帝国)」から「略奪」する。いわばその静寂に耐えかねたように「欲望(リビドー)」が突出し、祭りような興奮と共に「純粋略奪の快楽」をむさぼり、また「大きな内部」に静かに帰っていくのだ。このような「略奪」はすでに日常化しているだろう。

「大きな内部(帝国)」「環境管理権力」によって、そのような「悪」を管理しようと試みつづけているが、この「祭り」は突発的で混沌とし予測不可能で、ズレつづけていくのである。

これは対立ではなく、ただ「断絶」があり、そこにコミュニケーションは成立しない。だからそれが「悪」であるのは、「大きな内部」の論理でしかない。

*1:[批評]東浩紀ポストモダンの二重構造」とその限界 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20060117

*2:なぜ宮台は「世界」の中心で「魂」と叫ぶのか http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20050502