戦闘美少女の精神分析 斎藤環 (2000)

pikarrr2006-06-15


ISBN:4480422161

第六章 ファリック・ガールが生成する 戦闘美少女はいかにして「生成」したか

漫画・アニメの無時間性


養老猛氏よれば、脳の機能には「視覚系」と「聴覚−運動系」の二つがある。これはリアリティ認識の二つの系として理解できる。視覚系のリアリティが無時間的な認知であるとすれば、聴覚−運動系のリアリティは時間的要素を認知に取り込むことで成立している。

クロノス時間とは、時計で計測されるような物理的時間を意味する。いっぽいカイロスとは人間的時間を指している。アメ・コミはクロノス時間を全面的に採用する。漫画・アニメに描かれた時間はカイロス的と言うことができるだろう。この技法を開発した「功績」は、やはり手塚治虫にあったと考えられる。「高密度」と「高速度」の両立という逆説的な表現技法こそ、漫画・アニメのメディア空間にほぼ固有の性質と言いうるだろう。

ハイ・コンテクスト


セリフのみ、画像のみを追ってみても、十分な意味は伝達されない。それゆえ各コード系列は相互に補完しあう必要がある。そこにニゾン的な効果が生まれる。

アニメや漫画のハイ・コンテクスト性では、たとえそれが未知の作品であっても、内容や作品について容易に推測することができる。ハイ・コンテクストであるということは、送り手と受け手の間に距離感ないことによって成立する感覚である。言語的なコードよりも、エモーショナルなコードが伝達されやすくなる。

「虚構」vs「現実」


日本的空間においては虚構と現実という対比が十分に機能していない。そもそもこの対比自体が「西洋的」発想に基づいているのではないか。

西洋的空間では現実が必ず優位におかれ、虚構空間はその優位性を侵してはならない。虚構があまりに魅力的になりすぎないように、慎重に(象徴的)去勢しておく必要がある。いっぽう日本的空間はさまざまな虚構に自立的なリアリティを持つことが許されている。

日本空間において、リアリティを支えるもっとも重要な要因がセクシュアリティであるからだ。日本的空間はそこでいかなる表象物も象徴的去勢を被らない。去勢否認は性的倒錯の初期条件であり、倒錯的対象に親和性が高いのはそのためのである。ハイ・コンテクストは表象空間はともすればリアリティ効果が減衰してしまう危険にさらされる。この減衰に対する抵抗のひとつがセクシュアリティである。物語にリアリティの角を導入するだろう。

ヒステリーそしてファリック・ガール


戦闘美少女というイコンは、こうした多系倒錯的なセクシュアリティを安定的に潜在されうる、希有の発明である。小児愛、同性愛、フェティシズムサディズムマゾヒズムその他さまざまな倒錯の、いずれの方向へも可能性を潜在させつつ、しかし本人は無自覚なままふるまっている。

日常的現実を含む「虚構としての現実」が複数存在しうる可能性を、前提としている。われわれの日常も、虚構のリアリティも現実の一部と見なされる。不可能な「物」の領域としての「現実界」を想定するとき、これはまさに不可能であるゆえに象徴界ないし想像界を触発し、意味のレベルにおいて複数の想像的現実として顕在化するだろう。そこでは唯一の潜在的な現実、すなわち「外傷的な現実」こそが、想像的現実を複数化する。

ナウシカには「外傷」が存在しない。・・・ナウシカが敵を殺傷するシーンで、何が明らかにされているか。そう、それは彼女の戦闘能力が、すでにスキルとして十分完成しているものになっているということだ。・・・彼女は、決してレイプされることのない存在なのだ。「レイプされることのない存在」、言い換えるとなら、いかなる実体性をも持たない「存在」ということである。・・・おそらくすべてのファリック・ガールは、徹底して空虚な存在なのだ。彼女は、ある日突然、「異世界」に紛れ込み、何の必然性もなしに戦闘能力を与えられる。・・・「空虚であること」によって欲望やエネルギーを媒介する女性は、力動精神医学者によって「ヒステリー」と呼ばれる。

そのことを端的に証すのは、・・・「新世紀エヴァンゲリオン」のヒロイン「綾波レイ」である。彼女の空虚さは、おそらく闘う女性すべてに共通する空虚さの象徴ではないか。・・・「無根拠であること」こそが、漫画・アニメという徹底した虚構空間の中では逆説的なリアリティを発生されるのだ。つまり彼女は、きわめて空虚な位置におかれることによって、まさに理想的なファルスの機能を獲得し、物語を作動させることができるのだ。


「日常的現実」と解離した「もう一つの現実」という空間を維持するためには、しばしばセクシュアリティの磁場」が必要とされる。というのも、われわれのさまざまな欲望の中で、性欲こそがもっとも虚構化に抵抗するものであるからだ。性欲は虚構化によって破壊されず、したがって容易に虚構空間に移植することが出来る。描かれた金銭、描かれた権力、そうしたものがわれわれの欲望を喚起することはない。しかし描かれた裸体となると、・・・われわれは十分に、ときには身体的にすら反応する。ネコジャラシに飛びつく猫を笑えないほど、その反応は確実だ。

世界がリアルであるためには、欲望によって十分に帯電させられなければならない。欲望によって奥行きが与えられない世界は、いかに精密に描かれようとも、平板で離人的な書き割りめいたものになるだろう。しかしひとたび性的なものを帯びた世界は、それがいかにつたなく描かれようとも、一定のリアリティの確保することが出来る。・・・ファリック・ガールは、虚構の日本空間にリアリティをもたらす欲望の結束点である。彼女に向けられた欲望こそが、その世界のリアリティを維持する基本的力動に他ならない。

ファリック・ガールは、自ら性的な魅力について無自覚、無関心である。言い換えるなら無関心でありながらも、性的魅力を発揮せずにはいられない。こうした無関心さと、それを裏切る誘惑的な表象とのギャップは、ヒステリーの最大の特徴である。無関心さ、例えば無垢かつ天真爛漫な振る舞いこそが最大の誘惑となりうるということ。それはしばしばヒステリー患者が示す「良き無関心」と呼ばれる態度にひとしい。・・・「ヒステリー者の性器は脱性化され、身体はエロス化される。」・・・ここで重要なのは、受け手であるわれわれ自身が、彼女と性交渉を持つことができないという事実のほうだ。けっして到達できない欲望の対象であるからこそ、彼女の特権的な地位が成立すること。

対象にリアリティを見いだすとき、われわれは享楽の痕跡に触れている。言い換えるなら享楽は、到達不可能な場所におかれることではじめて、リアルな欲望を喚起するのだ。・・・ファルスは享楽のシニフィアンと見なされる。ファリック・ガールが戦闘するとき、彼女はファルスに同一化しつつ戦いを享楽し、その享楽は虚構空間内でいっそう純化されたものとなる。・・・ファリック・ガールに対しては、われわれはまず彼女の戦闘、すなわち享楽のイメージ(リアリティ)に魅了され、それを描かれたエロスの魅力(セクシュアリティ)と混同することで「萌え」が成立する。

メディアとセクシュアリティ


日本的空間に見て取るのは、メディア空間に晒された人々が、「情報化幻想」にひきこもろうとするとき、そこにリアリティの回路をひらくべく顕現するファリック・ガールの姿である。・・・われわれが彼女たちを欲望した瞬間に、そこに「現実」が介入する。それは・・・「日常的現実」のことではない。ここでいう「現実」とは、いままさに「日常的現実」の論理を規定的なレベルの支えている、現実的なものの作動を意味している。

過度に情報化を被った幻想の共同体で、いかにして「生の戦略」を展開すべきか。それが「不適応」に似て見えようとも、ファリック・ガールを愛することは、やはり適応のための戦略なのだ。・・・その解答の一つが「自らのセクシュアリティを利用すること」である。