続 環境問題にはなぜリアリティがないのか その2 環境コントロールという下部構造

pikarrr2006-06-22

環境との調和など存在しない


環境との調和など存在しない。自然は偶然性という名の無限の怪物である。だから食われないように闘争しつづけなければならない。それがいわば人間そのものの存在意義でさえある。

たとえばマルクスがなぜ経済を下部構造においたのか。経済とは人間と自然の根本的関係であるからだ。マルクスが自然との調和に理想系を見たことの間違いはあるとしてもこの視点は正しい。現代の環境問題とは、どこまで人間は自然をコントロールできるかという、太古からかわらない自然との闘争の新たな段階である。

いかに環境をコントロールするか。それは無限の環境の中で、コントロールできるだろう環境であり、人間が「やさしく」できる環境である。これを「内部環境」と呼ぶと、「内部環境」をコントロールするのは、偶然性というトラウマ的「外部環境」から人間社会を守りながら、環境から「資源」を略奪することを意味するだろう。




動物化という幸せな悩み


フーコー「生権力」ドゥルーズ「コントロール管理」、東の「環境管理権力」アガンベン「人類学機械」などの「コントロール社会」は、人間を管理するものとしてでなく、マルクス的人間社会の下部構造、人間と「内部環境」との交通様式として考えなければ、それらが進むだろう全体像が見えないだろう。

これらの「環境コントロールが人間管理の問題として表れているのは、ボクたち自身も自然の一部であるという自己言及性のためである。そしてこれらはフーコー規律訓練型権力「生権力」のように、デカルト心身二元論にある。デカルトのコギトは都合良くここにあるわけでなく、まさにこの複雑性を回避するための近代の発明品である。

たとえば東は「環境管理権力」の問題を以下のように示している。

情報自由論  不安のインフレスパイラル(後編) 東浩紀
http://www.hajou.org/infoliberalism/14.html

近代の国民国家の権力は、主体の内面=自己意識の陶冶を通じて人間集団を秩序づけるが、ポストモダン「帝国」の権力は、膨大な量の消費財を送り出し、身体的欲求を肯定することで人々を巧みに秩序のなかに巻き込んでいく。したがって、人々はそれを管理だとは意識しない。

私たちは、いま、世界中でコカコーラを飲み、マクドナルドを利用し、ディズニーアニメを楽しみ、マイクロソフトのOSを起動しているが、この画一的な市場は何も薬物や洗脳によって実現したものではない。商品と快楽のあいだの条件反射は、とくに実験室を用意しなくとも、消費社会のなかで十分に鍛えあげることが可能なのだ。そして、あらゆる場所にコンピュータとネットワークが埋め込まれ、消費生活の大部分がデータ化され、その解析結果が将来の商品配置と安全確保へただちにフィードバックされるユビキタス社会では、その欲望の管理はより緻密で徹底したものになっていくことだろう。

とはいえ、ユビキタスな環境管理とモバイルな創発的秩序を受け入れ、グローバルな視野を放棄し、目の前の幸せを追求する動物的な生を選ぶことのどこがいけないのかといえば、これは難しい問題である。・・・そもそも、私たちは、管理された動物として生きるのがもっとも幸せなのかもしれない。・・・しかし、ジャンクフードをかき込み、広告に踊らされ、ラッシュアワーでストレスを抱え、ささやかな幸せを守ることに汲々となっている現代人の生は、畜舎のなかで安穏と眠るウシたちと本当にそれほど異なっているだろうか。もしその差異があまり明確でないとするのなら、そのウシのような生を、より安全で豊かなものに変える情報環境の整備に対して、何を根拠に異議を唱えればいいのだろうか。

ここではもはや人間社会は「内部環境」との調和の世界にあり、人間は「目の前の幸せを追求する動物的な生を選ぶこと」が容易になっているという幸福な悩みをもった社会像である。

しかしここで隠されているのは、トラウマ的に回帰する「外部環境」である。無限の「外部環境」に包囲されたシミのようなボクたちの社会には必ず悪夢は回帰する。そしてどのような幸せな夢も目覚めさせられる。ここに、「環境との終わりなき闘争が人間そのものの存在意義である」という意味がある。




環境コントロールという下部構造


人は人を管理するためにコントロール社会を指向しているわけではなく、コントロール社会とは「内部環境」をコントロールする下部構造としてあり、その一部に人間身体も含めれている。それが、現代の自然との闘争の在り方であり、後期資本主義社会につづく、ボクたち社会の未来像へ続いているのだ。




トラウマ的な「外部環境」とは


ボクがいう、人にとってトラウマ的「外部環境」とはなにか。それはボクたちはなにをコントロール可能になったのかを考えればわかる。トラウマ的「外部環境」とはコントロールできないすべてである。地震津波、隕石落下による大災害はもちろんだが、エイズ、ガン、そして寿命。さらに他者、自分自身、欲望。ボクたちがコントロールできることなどたかがしれているのだ。

社会と自然、心身二元論の境界はどこにあるのか。そんなものはどこにもないがなければ人は存在しえない。なにものもコントロール不可能であるが、コントロール可能なように振るまわなければ人は存在しえない。

普通、誰も地震津波、隕石落下など気にして生きていない。自分が死ぬかもなどと考えていきてはいない。それでは神経症である。しかしそのような振るまいを破り、到来するものが「外部環境」であり、漠然とした不安がなくなることはない。それこそがボクたちをリアリティへと繋いでいる。
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