なぜ「デスノート」はセカイ系ではないのか(前編)「戦闘美少女」は享楽する
映画「デスノート」の虚構としてのリアリティ
映画「デスノート」を見た。マンガはコミックで読んでいたが、映画化はむずかしいのではと思っていた。名前を書くことで人を殺せる死のノートを手に入れるとどう使うかという「正義とはなにか」という大きなテーマがあり、マンガのおもしろさは心理の葛藤にある。
しかし映像で表すと、「ノートに名前を書く」→「突然、人が苦しみだして死ぬ」。役者が突然苦し倒れる映像は、実写ヒーローもの程度にさびしく、リアリティがない。実際にみてほんとにそのようだった。また主人公月(ライト)などの心理表現の映像化はむずかしく、結局、悪魔的少年というわかりやすいキャラクターで描くしかなかったようだ。
唯一の救いはCGで描かれた死神デュークの存在である。そのCGがどれだけリアリティがあるかというよりも、仮にCGで描かれた死神デュークがいなければ、役者が突然苦し倒れるような虚構性はさらにサブク浮いてしまったのではないか。死神デュークによって、虚構としてのリアリティが支えられているように感じだ。
これは現代のおとぎ話と言える。「もしもデスノートがあったら・・・」たとえばハリウッド映画でもリメイクされ世界的にヒットして、「リング」や、「着信アリ」なども、「もしの呪いのビデオがあったら・・・」、「もしも呪いの電話があったら・・・」と前提があり、物語が進む。そしておとぎ話である故に、死神、デスノートという前提(シチュエーション)のリアリティはさほど重要でない。
ノート、ビデオ、ケータイが死神、怨念と短絡するのはとても不思議な感じもするが、これらに共通するのは、身近な道具がキーであるということだ。背景なく大きな力が身近な道具へ短絡する。このような構図はオタクアニメの「セカイ系」の特徴に近いのではないだろうか。
哲学者の東浩紀は、ほぼ同じ状況を指して「象徴界の喪失」と表現する。・・・東氏は、たとえばアニメ作品「新世紀エヴァンゲリオン」、「ほしのこえ」などに顕著な傾向として、登場人物の学園生活といった近景すなわち想像界と、世界破滅の危機といった無限遠の彼方にある遠景すなわち現実界とがいきなり短絡されがちである点を指摘する。
「心理学化する社会」 斉藤環 (ISBN:4569630545)
セカイ系の三界構造
セカイ系の特徴は「象徴界の喪失」といわれる。ボクの日常と世紀末が、社会的な背景(象徴界)なく、短絡する。しかし他にも似た特徴が上げられるだろう。斉藤環はオタク文化に共通するつよい少女像を「戦闘美少女」と呼び、古くは60年代の「魔法使いサリー」、「りぼんの騎士」などから繋がる日本のアニメを支える重要なキャラクターであるという。
たとえばオタク文化のあけぼのである70年代の「宇宙戦艦ヤマト」(1974)の「森雪」の存在と同じ松本零志の「銀河鉄道999」(1978)の「メーテル」を対比して考えみると、「宇宙戦艦ヤマト」では、主人公「強いヒーロー(古代)」と敵「強いアンチヒーロー(デスラー)」というヒーローものライバルの構造が中心にある。このような構造にあるときには、「戦闘美少女」(森雪)は「紅一点」の脇役に留まる。
それに対して「銀河鉄道999」では、主人公のテツロウは強いヒーローではなく、反省的である。そして敵はアンチヒーローのようにつよく敵対するというよりもなにか漠然としている。そしてこの間で 「戦闘美少女」(メーテル)のキャラクターは上昇する。
ここには、「反省的な主人公」−「戦闘美少女」−「漠然とした敵」という三界構造がある。そしてセカイ系に向かってこの構造は純化されていく。
反省的な主人公 | 戦闘美少女 | 漠然とした敵 | ||
1978 | 銀河鉄道999 | テツロウ | メーテル | (敵) |
1995 | 攻殻機動隊 | バトー | 素子 | 敵 |
1995 | エヴァンゲリオン | シンジ | レイ(アスカ) | 使徒 |
2002 | 最終兵器彼女 | ボク | 彼女 | 敵 |
2002 | ほしのこえ | ボク | 彼女 | 敵 |
2006 | 涼宮ハルヒの憂鬱 | キョン | ハルヒ(有希) | (敵) |
「ヒーローVSアンチヒーロー」の消失
セカイ系で純化された三界構造は、現代は男性が弱くなり、強い女性が男性を叱咤し守るということでない。問題は主人公がヒーローになるためのアンチヒーローが不在であるということだろう。
「宇宙戦艦ヤマト」の「古代」に対する「デスラー」、「機動戦士ガンダム」の「アムロ」に対する「シャア」という「強いヒーロー」と「強いアンチヒーロー」にリアリティがなくなっている。なぜならば敵もまた主人公同様にさまざまな背景を背負い、反省する同じ内部の存在であるからだ。
「宇宙戦艦ヤマト」も「機動戦士ガンダム」も続編が作られていくが、その中で「デスラー」にしろ「シャア」にしろ、もはや敵ではなく、とても複雑な位置に置かれる。そして物語も対立構図が見えにくい複雑なものへ向かう。これは、形而上学的な二項対立にリアリティがなくなっているポストモダン的な状況ともいえるだろう。
「ファリック・ガール(ペニスをもつ少女)」
斉藤環は「戦闘美少女」を「ファリック・ガール(ペニスをもつ少女)」と呼び、その特徴として、「ヒステリー性」と「セクシュアリティ」を上げている。
ファリック・ガールは、自ら性的な魅力について無自覚、無関心である。言い換えるなら無関心でありながらも、性的魅力を発揮せずにはいられない。こうした無関心さと、それを裏切る誘惑的な表象とのギャップは、ヒステリーの最大の特徴である。無関心さ、例えば無垢かつ天真爛漫な振る舞いこそが最大の誘惑となりうるということ。・・・「ヒステリー者の性器は脱性化され、身体はエロス化される。」・・・ここで重要なのは、受け手であるわれわれ自身が、彼女と性交渉を持つことができないという事実のほうだ。けっして到達できない欲望の対象であるからこそ、彼女の特権的な地位が成立すること。
対象にリアリティを見いだすとき、われわれは享楽の痕跡に触れている。言い換えるなら享楽は、到達不可能な場所におかれることではじめて、リアルな欲望を喚起するのだ。・・・ファルスは享楽のシニフィアンと見なされる。ファリック・ガールが戦闘するとき、彼女はファルスに同一化しつつ戦いを享楽し、その享楽は虚構空間内でいっそう純化されたものとなる。・・・ファリック・ガールに対しては、われわれはまず彼女の戦闘、すなわち享楽のイメージ(リアリティ)に魅了され、それを描かれたエロスの魅力(セクシュアリティ)と混同することで「萌え」が成立する。
ポストモダン的な「大きな内部」では、外部が消失し、内部が複雑化することで閉塞する。そのような状況の中で「戦闘美少女」の「無垢」なヒステリー性とセクシュアリティは、ひときわ輝くリアリティを放つ。
たとえばこのような「ヒステリーとセクシャリティの上昇」は、ハードゲイHG、猫ヒロシなどの最近の「お笑い」にも見ることが出来る。*1さらにいえば、現代のロリコン傾向もこの傾向の中にあるだろう。現代は「大きな内部」へと閉塞しているが故に、無垢な存在への欲望が強くある。
外部の産出
このような「ヒステリーとセクシャリティの上昇」が生みだしているものが、「外部」である。「戦闘美少女」は内部と外部の「断絶(ファルス)」に位置する「享楽のシニフィアン」であり、「外部」への扉を開くのだ。
「戦闘美少女」によって開示された外部とは「大きな内部」の向こうにあり、ボクたちの倫理を越え、なにが起 こっているのかわからないただ「漠然とした不安」としてあるセカイである。だから「戦闘美少女」が外部から飛来した不気味な「動物」を殺戮することは、「アンチヒーロー」を倒すのとは違い、負債感なく享楽する、死を(純粋)略奪する快楽である。
セカイ系での戦闘シーンは必ずしも多くない。多くは主人公が反省する静かで閉塞したシーンである。そこに突然、「戦闘美少女」を介して外部への扉が開き、享楽する。たとえば「エヴァンゲリオン」では使徒とのわずかな殺戮シーン(それは電源使用時間で制限されている)の享楽によって、ボクたちは解放される。
セカイ系が純化する三界構造とは、「戦闘美少女」を媒介として失われた外部を見いだし、ポストモダン的な「大きな内部」の閉塞からの解放を意味する。「象徴界の喪失」とは「大きな内部」の閉塞からの脱出であり、ボクたちの身近(想像界)を外部(現実界)へ短絡することである。
*2
*1:なぜお笑いブームは「狂気」化するのか http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/200603221