なぜ「デスノート」はセカイ系ではないのか(後編)「死神」は内部を再生する
道具の呪術性(フェティシズム)
さらにセカイ系の「戦闘美少女」の特徴に、道具性がある。「銀河鉄道999」のメーテル、「攻殻機動隊」の素子、「最終兵器彼女」は機械であり、「エヴァンゲリオン」のレイはクローンである。 その他「戦闘美少女」は兵器で武装している。
「戦闘美少女」が道具であることは、斎藤のいう中性性やヒステリー性に繋がるだろうが、さらには道具には外部を開くという力がある。
車を飛ばすスピードの快楽、PCを操る快楽、小さな子供が自転車を飛ばす快楽とはなにか。機械とは身体の拡張であると言われる。たとえば車は速さ、力を拡張する。PCは頭脳を拡張する。ネットはコミュニケーション速度を拡張する。
この拡張とは、外部環境の開拓である。偶然的、混沌の外部環境を、フォーマットし内部環境(グレイゾーンへ)へと転換する。
このようにテクノロジーを使う快楽は、機械化され拡張された身体がいままで到達し得なかった領域(外部=無垢)を征服し、コントロールする快楽である。そしてこれは外部環境からの(純粋) 略奪であり、略奪する快楽である。
続々 デジタル製品を買うとなぜわくわくするのか http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20060626
道具は身体を拡張し、到達し得なかった外部を開拓する力をもつ。子供は道具好きである。電車であり、車であり、力の拡張に魅了される。このような道具のもつ「呪術性(フェティシズム)」が効果的に使われているのが「ドラえもん」だろう。
「戦闘美少女」の道具としての「呪術性(フェティシズム)」は、内部と外部の「断絶(ファルス)」としてあることを補強するのだ。
そして「デスノート」ではデュークという死神、リングでは貞子という「戦闘美少女?」がノート、ビデオ、あるいはケータイという身近な道具の呪術性とともに「断絶(ファルス)」の役割を担っている。
内部再生への渇望
「デスノート」の力は、ノートという「断絶(ファルス)」をとおして行使される外部の力である。だから地震などと同じように天災であり、そこに内部の倫理である善悪はない。そして、純粋な暴力として生が純粋略奪される。これは「リング」、「着信アリ」でも同様である。
まず根源的に働く力は、外部からの純粋略奪である。そしてその最初の力は、社会の中で贈与されていく。贈与とは身近なものの間の交通様式である。交換が対等であるのに対して、贈与は与えられことで負債感がうまれる。現代ならば、親は子供に生きる糧を贈与する。それにより子供には恩が生まれる。それはまたその子供に繋がるように、繋がりを生んでゆく。
最初の一撃は自然の恵みのように外部から純粋贈与(負債のない贈与)ではじまり、それが贈与されることで、強い内部関係が生まれるのである。「デスノート」の中ではキラという「断絶(ファルス)」を中心に信仰的なコミュニティが再生される。
すなわち「デスノート」、「リング」、「着信アリ」で示されているのは、負の贈与(略奪)であるが、その一撃が、繋がりが希薄なポストモダン的な「大きな内部」へと働くことで強い繋がりが再生される場面である。
システムには必ず「外部(現実的なもの)」が必要とされる。しかし大きな「内部」(「帝国」)には、もはや「外部」が存在しない。だから「疑似純粋略奪的な対立」とは、疑似的に「外部(現実的なもの)」を産出する運動としてある。これは閉塞する社会にダイナミズムを与え続けるための自己言及的な運動である。強く「内部」を求めることは強く「外部」を求めることである。
ネットと社会はなぜ「断絶」するのか その5 純粋略奪の快楽 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20060611
これはセカイ系でも同様だろう。セカイ系が純化する三界構造とは、「戦闘美少女」を媒介として失われた外部を見いだし、ポストモダン的な「大きな内部」の閉塞からの解放を意味するとともに、外部の出現によって、強いコミュニティが再生されることが求められているのである。
「デスノート」はセカイ系的な構造をもつが、セカイ系ではない。セカイ系はセクシュアリティを「断絶(ファルス)」にした三界構造を純化させたものである。それはおたくに特有な表現形態である。
ひとはどのような契機によっておたくになるのか。・・・私はここに、きわめて密接にセクシュアリティの問題が関与すると考える。セクシュアリティの虚構性、あるいは多層性に気付くこと。アニメに描かれた女性に欲望を喚起されるとき、ひとは戸惑いながらも、この事実に感染させられてしまう。・・・おたくに対する素朴は嫌悪のまなざしは、まさに彼らのセクシュアリティにおいて極まるだろう。・・・おたくにおいて決定的であるのは、想像的な倒錯傾向と日常における「健常な」セクシュアリティの解離ではないかと考えている。・・・戦闘美少女のイメージには、あらゆる性倒錯がつめこまれている。
第一章 おたくの精神病理 「戦闘美少女の精神分析」斎藤環 (2000) ISBN:4480422161
「デスノート」では、外部の産出、そして強い内部の再生とともに、死神リュークの登場は少なくなり、途中登場するミサという「戦闘美少女」も紅一点の位置に落ち着き、「ヒーロー(月(ライト)VSアンチヒーロー(エル)」の(再生された)内部内の対立構図として進んでいく。それを支えるのは外部へ開き続ける「デスノート」の存在である。
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