なぜ柄谷には「外部」がないのか

pikarrr2006-07-10

むじんくん
近代的自己意識の運動と近代的時間概念、これは密接な関連、というよりも同じものだと思います。近代的時間の特徴は、「進歩」というもので、これは人間の「成長」を時間軸上に描くという形で語られますね。

考える名無しさん
たしかにヴィーコダーウィンコンドルセヘーゲル、コント、スペンサー、マルクスなどはそうですね。

ぴかぁ〜
「進歩」という時間性は技術進歩にしかないですね。そして技術の進歩によって、「近代的自己意識」「近代的時間概念」、さらに資本主義思想、すなわち近代以降の全ては依存するわけです。特に世界大戦の前はこの進歩思想の高揚感の絶頂ですね。人間のテクネーは世界を征服できる。

リオタールがポストモダンの条件」において大きな物語の消失」といったのは、まさにこの進歩史観の消失ですね。様々な科学技術の限界によって、マルクス主義的史観の限界を指摘しました。

そのように言われながら、現代、ボクたちはいまだに技術の進歩を信じています。確かに環境問題など、かつての進歩への楽観主義への疑いがあります。ネットなどへの熱狂は技術進歩への熱狂です。

ここには、「なぜに人は技術に熱狂するのか。」という問いがあります。そして資本主義の原動力は人々の豊かになりたいという功利主義的なものではないということです。
考える名無しさん
柄谷行人マルクス読解だとそれは逆になる。産業資本主義においては資本が存続するために、剰余価値を時間的差異から得る仕組みになっている。つまり絶え間ない技術革新によって時間的に価値の差異を産みだしそこから利潤を得る。人々の欲望が資本の原動力になってるのではなく、資本の原動力が人々の欲望を喚起している、という構図。

ぴかぁ〜
大文字の他者象徴界)の欲望


「資本の原動力が人々の欲望を喚起する」とは、ラカンでいうと「欲望とは大文字の他者象徴界)の欲望である」ということです。これは、構造主義的な欲望論です。

有名な13歳の岩崎恭子が金メダルをとったときに「生きてきた中で一番幸せです」といった滑稽さは、このようなことを示します。あの滑稽さは、まだろくに生きていない子供がこまっしゃくれて大人のような発言をすることにあります。

彼女はどこかでこのような場面(コンテクスト)でこのようにいう大人を見たのでしょう。そして彼女なりにコンテクスト(文脈)に適した発言をした。しかしそれは子供が使うことではないというコンテクスト(文脈)までは読めなかった。

さらにいえば、無意識にそのような言葉がでてしまったということです。人はコンテクスト(文脈)を読んで発言するというよりも、コンテクスト(文脈)が人に言葉を言わせるということです。構造主義的にいえば、人間存在そのものがコンテクスト(文脈)の中で作られる表象であるということです。口を開き「私」というシニフィアンを発言することで私があるのであり、事後的に本質的な私という存在がいるように錯覚される。

大文字の他者象徴界)の欲望」とは象徴界=言語体系の中で生まれる欲望がホントの欲望のように人は錯覚する。これがラカン「無意識は言語のように構造化されている」という意味です。

そしてこのように、ボクたちが豊かになりたいという功利主義的な欲望は、柄谷的に「資本の原動力が人々の欲望を喚起している」ものであると繋がります。




外部への「享楽」


しかしラカンはこの構造主義を越えていきます。この構造には穴がある。大文字の他者象徴界)の欲望を動かす力はなにか」「なぜに人は技術に熱狂するのか」功利主義的ではない資本主義の原動力はなにか」

それは、人の「外部」をめざすコントロールできない生の力(欲"動")=享楽です。たとえばこのような力を正的にドゥルーズ器官なき身体と呼びます。「外部」とは内部(大文字の他者象徴界))の外です。たとえば資本主義が作動するには、自然を破壊し、後進国、下層から搾取し、たえず増殖することでなりたっています。

技術、そして資本主義は享楽を促進します。技術とは、混沌として外部(自然=フロンティア)を開拓する有効な道具です。そのような自然(外部)を征服することに人間は享楽を得ます。




マルクス「純粋贈与」「世界共和国」


中沢新一は、「愛と経済のロゴス」ASIN:4062582600)の中で、ラカンのボロメオの輪(想像界象徴界現実界)に対応させて、社会を「贈与=交換=純粋贈与」として示します。ここで重要なのか、純粋贈与という外部(自然)との関係が、内部の関係(贈与、交換)を作動させる力となるということです。

それに対して柄谷行人「世界共和国へ」ASIN:4004310016)の中で、ボロメオの輪として「資本=ネーション=国家」と示しています。これは「ネーション(互酬(贈与))=国家(再配分)=資本(交換)」のように言えます。ここには現実界(外部)がないのです。

ラカン 想像界象徴界現実界

中沢 贈与=交換=純粋贈与

柄谷 ネーション(互酬(贈与))=(国家(再配分)−資本(交換))=外部(現実界)がない
二人ともマルクスから大きな影響を受けています。マルクスはその根底で自然との調和、内部(社会)と外部(自然)との調和をおいていました。享楽(生の力)が自然と協調する理想主義的世界です。

中沢は純粋贈与によってマルクス的な外部と内部の良好な贈与関係(中沢は「対称性」とよぶ)を思考します。

また柄谷では外部が全て内部に取り込まれる、あるいは調和している世界を思考します。だから最終的に外部のない世界=「世界共和国」となるわけです。これはネグリ「帝国」と近いですが、ネグリは大きな内部で間欠的に派生する外部=マルチチュードを想定します。




純粋略奪の快楽


外部の本質はトラウマ的な不確実性です。そして人間の外部を目指す力(享楽)はどこへ向かうのか。このように外部は簡単に調和したり、取り込めたりするものではありません。だからボクは以下のような構図を考えています。

互酬(贈与)=(再配分=交換)=純粋略奪(純粋贈与)

想像界=互酬・・・共同体=繋がり、規範
象徴界=再配分・・国家=法、秩序
グレイゾーン=交換・・・資本=法則←科学技術の発達で19世紀以降全面化で、社会から想像界現実界が排除されていく。
現実界=純粋略奪(贈与)・・・自然の恵み、天災/環境破壊、後進国、下層からの搾取
外部との関係が内部を規定し続けます。原始社会では外部はトラウマ的なものです。恵みとして生きる糧を与えてくれるとともに、不確実に災害によって命を奪う。だから外部を自然神として良好な関係を築こう祝祭、呪術の儀礼で秩序は保たれました。そして祝祭はまたボトラッチなどに見られるように享楽の解消の場でもありました。

ルネッサンス移行の技術革命によって、人間は自然から効率的に略奪することが可能になります。このように開拓された領域を「グレイゾーン」と呼びます。この「グレイゾーン」の拡大が資本主義社会を可能にしています。そして現代では、環境から逆襲=環境破壊による災害が問題になり、またグローバリズムによる格差(労働力という自然の搾取)の問題はこのようにとらえられると思います。

マルクス的な内部(社会)と外部(自然)の調和と説くのは容易ですが、外部へ向かう過剰性=享楽が人間の本質である以上、「私的所有の廃止」では解消にはならないと思います。

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*1:本内容は、2ちゃんねる哲学板哲学のスレッド「神学の婢 2」 http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/philo/1149469162/213-226 をもとに編集しています。

*2:画像元 http://www.sanspo.com/athens2004/column/gold/88.html