なぜ柄谷には「外部」がないのか。 「世界共和国」と自然主義的闘争
id:mal_blueさんからの質問
「[議論]なぜ柄谷には「外部」がないのか」のコメント欄より http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20060710
「哲学は神学の婢 2」も読んだけど、外部と未来の違いってなんですか?
「なぜ「継続」こそが「正義」なのか」あたりを読み直してみると「世界共和国」は不可能なものとしてありそこへ向かうことが、ある意味で享楽となるという予測とも推測できるけど(享楽というよりラカン・シジェクの「幻想 fantasy」かな?)
実存というか、共時的「外部」については固有名論辺りで扱ってたのに、何も言わなくなっちゃったからなぁ。「私的所有の廃止」->「個体的所有」とつながるみたいなことほんの少し言ってたんだけど論が展開されなくて何のことやらだったし。
■「世界共和国」という「超越論的仮象(幻想)」
「世界共和国へ」
先に書いたように、マルクスは社会の最終形として自然との調和、内部(社会)と外部(自然)との調和をおいていました。資本(経済)は下部構造なので、調和をやぶり破滅的な資本主義経済をアソシエーションへ変革することがめざされます。上部構造の国家はこの過程で消滅していくと考えられています。
これに対して、「世界共和国へ」(ASIN:4004310016)の中で柄谷は資本=ネーション=国家というポロメオの輪を示します。資本(経済)を下部構造とおくのでなく、これら3つそれぞれが交通様式をもち重要である。そして特にいままで重要視されていなかった「国家」に注目します。
国家を説明するためにホッブズの「自然状態」が引用されています。人は自然状態では戦争状態にあり、そこに秩序をもたらすためには国家という力が必要になる。このような上からの力によって人は秩序を保つ。
国家は自然に消滅していくようなものでなく、積極的に統合がめざされる必要がある。そしてそれによってグローバルコミュニティ(アソシエーション)という自然と調和した社会が可能になるだろうということです。
享楽する国家
現在、資本あるいは情報のグローバル化の中でおこっているのは、ナショナリズムの台頭です。ここには享楽の構造があるのではないでしょうか。人は内部/外部の形而上学的二項対立を欲望します。そのためのたとえば「ユダヤ人」、「韓国人」などを「断絶(ファルス)」において「幻想 fantasy」を生み、外部へ享楽し、内部への帰属意識を高めます。
このような享楽の構造(否定神学)はネーション的内部を形成します。そして国家はこのような内部内および外部との関係をコントロールする機能としてあります。
グローバル化によって、外部が消失し、大きな内部にむかっているからこそ、享楽の構造によって、他国、他民族を外部へと排除し、帰属意識を高めるナショナリズム的な小さな内部(自国、自民族)が求められているのです。
問題は「それでも「外部」は求められる」ということであり、このような享楽に対して、柄谷のいうような外部のない「世界共和国」へ向かうことはできるのだろうか、ということです。
「世界共和国」という「超越論的仮象(幻想)」
資本にとっても外部とは、自然です。資本主義は自然を略奪することで継続され、環境問題が生まれます。ネーションの外部は、他ネーションです。また国家の外部は他国家です。ここにはナショナリズムなどの闘争、搾取が生まれます。
人類にとって致命的なカタストロフがおこる前に、実現可能なところから始めるほかないのです。人類はいま、緊急に解決せねばならない課題に直面しています。それは次の三つに集約できます。
1 戦争、2 環境破壊、3 経済格差
これらは切り離せない問題です。ここに、人間と自然との関係、人間と人間の関係が集約されているからです。そしてこれらは国家と資本の問題に帰着します。国家と資本を統御しないならば、われわれはこのまま、破局への道をたどるほかありません。
「世界共和国へ」 柄谷行人(ASIN:4004310016)
「世界共和国」では、外部と内部が調和したアソシエーションによって、これらの外部は解消されます。そしてこのようなアソシエーションを可能にするために、国家間対立が統合された「世界共和国」が目指されます。すなわちキーになるのは「国家」の統合であり、それはカント的な「統合的理念」によるとされています。「世界共和国」は到達不可能であるような外部を目指すための仮象(幻想)としてある。ある意味で目指されるべき倫理的な仮象であるということです。
理性を構成的に使用するとは、理性にもとづいて社会を暴力的に作り変えるような場合を意味します。それに対して、理性を統整的に使用するとは、無限に遠いものであろうと、人がそれに近づこうと努めるような場合を意味するのです。たとえばカントがいう「世界共和国」は、それに向かって人々が漸進するような統整的理念です。
カントによれば、統整的理念は仮象(幻想)である。しかしそれは、このような仮象がなけれはひとが生きていけないという意味で、「超越論的な仮象」です。・・・統整的理念は、決して達成されるものではないがゆえに、たえず現状に対する批判としてありつづけます。
「世界共和国へ」 柄谷行人(ASIN:4004310016)
これは享楽の構造に近いでしょう。トラウマ的カタストロフ(外部)によって、「世界共和国」は享楽される。そして「このような仮象がなければひとが生きていけない「超越論的な仮象」」の資格をもつということです。
■享楽の構造と「愛の関係」
「バタイユ 消尽」
「バタイユ 消尽」 湯浅博雄(ISBN:4061597620)を読みました。バタイユの思想はフロイト、ラカンと同じ構図を持っています。ラカンとはフロイト、コジェーブに師事したお友達ですから当然です。バタイユの特色は、文化人類学への展開です。
バタイユは、原始の祝祭におけるポトラッチなどの返礼を求めない純粋な贈与を「消尽」と呼びました。大切なものを自然へと捧げ、さらに破壊します。これは享楽の構造と言えるでしょう。自然という外部へ「聖なるもの」というファルスを通して、見返りなく、贈与する。そのような祭りの身体的な興奮の場において、「返礼」を求めるよこしまな思いを進入させる言語を乗り越え、自然と一体化するように享楽する。
「愛の関係」
さらに本書の後半部では、キリスト教などの否定神学的な閉じた共同体の形成に対して、「愛の関係」という倫理的なものが示されます。「愛の関係」とは決して同一化できない他者へむけて「消尽」しつづけることで開き続ける倫理的な関係ということです。これは必ずしもバタイユのものではなく、湯浅氏がレヴィナスを迂回して考えた解説のようにですが。
この倫理的な「愛の関係」は柄谷、デリダの「他者」と近いものではないでしょうか。柄谷は「他者」とはカントの「物そのもの」であるといいました。
デリダの、柄谷の「他者」は、倫理的な意味をもつ。到達不可能であることはわかっているが、「(現実界)の他者」へ到達しようという、「(象徴界の)他者」を「反転」しつづけるという終わりなき試みへの決意である
なぜ「継続」こそが「正義」なのか? その3 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20050617
これは統整的理念としての「世界共和国」に重なります。理性を統整的に使用することで決して達成されるものではない「世界共和国」はたえず現状に対する批判としてありつづけるということです。
「消尽」という暴力
しかし現代、恋人などへ「キミのために全財産を消尽する」と言われた場合にはどうでしょうか。恐怖するのではないでしょうか。なぜならば消尽(純粋贈与)は享楽であり、精神分析的に悪い転移(イマジネールな闘争)、暴力であるからです。原始における祝祭の「消尽」が可能なのは、相手が「自然」だから止めどなく消尽することができるのです。
愛する人にすべてを贈与しつく享楽の地点はいかに可能だろうか。原始においては、それは供儀(祝祭)の中でめざされた。自然へ返礼を求めない贈与と共に、興奮の祝祭の中で一体化する。自らの財産を破壊するポトラッチ、また極限には自らの命さえ捧げるのである。バタイユは儀礼化される前の祝祭にこのような純粋な贈与に近接する「消尽」が存在したと考える。
現代では、純粋贈与の対象は愛する他者(家族、恋人、カリスマ)へ向かう。自然はなにも言わず、純粋贈与を受け止めることができたが、生の人間への純粋贈与は脅威ではないだろうか。
純粋贈与(享楽)とはおまえはわたしで、わたしはおまえだという闘争である。そして限りない近接の中でおまえとわたしの差異は外部へと純化され、排他され、そして破壊が求められる。純粋贈与(享楽)の本質は負債なき暴力により破壊する「純粋略奪」であり、破壊できる外部の産出である。
なぜ贈与は暴力なのか http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20060711
享楽の構造と「愛の関係」の差異
では享楽の構造(否定神学)と、「愛の関係」(脱構築し続ける倫理的「他者」)どのように差異を見いだすことができるのでしょうか。
享楽の構造(否定神学)とは他者を外部へ排除することで、内部への帰属を高めます。そして産出された外部へ負債なき暴力という「純粋略奪の快楽」が生まれる。「超越論的仮象(空想)」は内外を分ける「断絶(ファルス)」の位置にあります。
それに対して、「愛の関係」は享楽の構造によって内部へ閉じる外部へ開き続ける。すなわち脱構築されつづける。「超越論的仮象(空想)」は理性的に検討される対象となります。
このように思弁的に差異は説明はできるとしても、享楽の構造と「愛の関係」が区別するのは難しいでしょう。
動力は享楽の構造であり、欲望されることで脱構築も意味を持つのです。だから享楽の強度が重要になります。
■「世界共和国」と自然主義的闘争
「世界共和国」にはなぜリアリティがないのか
ボクは「環境問題にはなぜリアリティがないのか」(http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20060629)と言いました。環境にやさしく、環境との調和の言説のむずかしさは、その構造が自己言及にあるということです。環境問題の「外部」とは我々の世界そのものです。我々が享受する資本主義社会の暴走が、我々の世界を恐怖に陥れているのです。
そしてこのような自己言及において、享楽の構造による形而上学的二項対立は作動しにくい。享楽されるような「外部」を生みにくいのです。そして現状の資本主義社会が悪いと「外部」におく、「世界共和国」にも同様な自己言及があり、同じことが当てはまるのではないでしょうか。
これはマルクス主義そのものがもつ自己言及性です。かつての共産主義革命のときには、享楽の構造が形而上学的二項対立を演出し、プロレタリアートに対立するプルジョアジーという「超越論的仮象」(ファルス)を生み出せました。
たとえば現在ならば、環境問題が人類の生存に差し迫る。あるいは地球を破壊するような隕石が落ちてくる、あるいは宇宙人がせめくるような、トラウマ的な「外部」が見いだされたときに、「世界共和国」はリアリティをもちえるのかもしれません。
自然主義的闘争の可能性
柄谷の「世界共和国」は、環境問題と同じように現在の資本主義を「外部」にするという自己言及性によって、「外部」として見いだされにくい。すなわち享楽の強度が低く、リアリティがない。「外部」とは人が純粋な暴力をふるう「純粋略奪の快楽」の場です。これは現在、マルクス主義が失ったリアリティでしょう。
ネグリの「帝国」(ASIN:4753102246)における「マルチチュード」とはなんでしょうか。それは「マルチチュード」とは何ものなのかということでなく、様々に語られ続けるのは「世界帝国」という大きな内部の不完全さ、トラウマ的なシミとして「外部」を想起する欲望の対象として作動しているのではないでしょうか。
ボクは、環境問題とは有史からの外部(自然)と人間の闘争の延長線上にあり、闘争として外部を上手くコントロールするが重要である。そしてこの自然主義的闘争という形而上学的二項対立によって、環境問題は欲望されることでリアリティを持ち得るのではないか、と考えました。
理性を統整的に使用する統整的理念としての「超越論的な仮象」ではなく、欲望を想起し享楽の構造によって産出される「超越論的な仮象」という「外部」です。そしてこのような外部の産出こそが、「このような仮象がなけれはひとが生きていけない」ことを意味するのではないでしょうか。
環境と人間とはそのはじめから闘争としてある。・・・「自然」とはこの空間、時間そのものとしてあり、人間の「自然への思い」を遙かに越えた次元で、不確実なものとして到来する。そのトラウマ的事実を無意識に隠蔽しているのである。そして環境からの反撃という漠然とした恐怖に、「調和」というより高度なコントロールしようという新たな闘争へ向かっているのだ。
環境のトラウマ性を隠蔽した調和としての環境問題の言説にはリアリティがない。新たな闘争として語るときに環境問題は欲望を想起し、リアリティを持ち得る。
人は「闘い」、「敵」の仮想性から逃れることはできない。そして「闘う」快楽から逃れることもできない。人は自然との闘争を望んでいる。自然との闘争にこそ純粋略奪の快楽があるからだ。それがまさに人間存在のトラウマである。
これは純粋略奪の快楽という資本主義社会のみならず、人類にとって避けることが困難な自然主義的な闘争である。・・・もはや外部がないということではなく、ここには外部と対立した内部としての思想、倫理の再構築が求められるだろう。安易な外部環境との調和論でなくまた排除でもない。闘争とは人類がいかに「豊かに」生き抜くかのために、対立し、活用し、管理する戦略である。
環境問題にはなぜリアリティがないのか http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20060629