なぜボクたちは「不条理な社会」という宙吊りを生きるか

pikarrr2006-07-27

倫理的な社会と不条理な社会


最近BSでチャップリン特集をやってますが、チャップリン映画をみるとあの時代の不条理がよくわかります。チャップリンが描くのは学なく貧しい弱者が社会で虐げられている姿です。たとえば今の下層なら当然の人権が守られていないのではと対立が始まりますが、教育、社会整備の不備な時代には彼らは権利の概念さえない不条理にいきています。だからチャップリンは最後は正義が勝つということではなく、その不条理の社会で逞しく生きる人々を描きます。

ボクたちが生きる現代社会はそのような意味で幸せな時代であり、高度に「倫理的な社会」です。みなある程度豊かで教育がいきとどき、他者に対して倫理的な振るまいを期待できます。ボクたちは場の中で空気を読むことが期待できることを当たり前に感じていますが、チャップリン「不条理な社会」、すなわち不平等と不自由な社会は、おそらくそれは有史以来かわらず、そしていまも社会の多くがそうでしょう。だから「歴史の終わり」を過ぎた社会を生きているボクたちがかなり特異であるのでしょう。




倫理と現実の差異


しかしボクたちの社会は不条理を撲滅しえたということではありません。不条理は隠されているということです。現代の倫理は本質的に超越論的で、弁証法的世界を想起するところにあります。到達すべき理想があり、現実はそれとの差異によりはかられ、差異は解消されると信じられているということです。

そしてこのような倫理的な考えは比較的新しいのではないでしょうか。より根源的な人間の有り様は、不条理に生きる、それが生得的な特性のように不条理をただ受けとめるようにあると思います。

たとえば最近、母の子への強い愛情という「神話」に反して、虐待が問題になっていますが、このような不条理、あるいはもっと悲惨な不条理は歴史上で脈々と行われてきたことでしょうし、いまも世界のほとんどがそのようにあると思います。「現代の病」といわれるのは、高度に「倫理的な社会」が信じられている中で行われるからです。




不条理な社会北朝鮮と倫理的な社会「日本」


たとえば最近なら、不条理な社会であるイラク北朝鮮と、倫理的な社会であるアメリカや、日本など先進国の構図があります。ニュースなどで流れる北朝鮮の不条理な社会を倫理的な社会に住むボクたちがみて、ボクたちの社会の正しさを確認するわけです。そしてアメリカはそのような正しさの普及のために暴力も辞さない姿勢です。

倫理への理念にかかわらず、「倫理的な社会」には不条理がなくなっているわけではありません。社会は不条理としてあるということです。倫理的な社会が「正しい」という価値は存在しません。北朝鮮が間違いで日本が「正しい」、さらにいえば北朝鮮の方が不条理であるということも言えません。




倫理とは豊かさへの期待である


では北朝鮮と日本の決定的な違いなにか、といえば、科学技術の発達による物質的豊かさ、経済の活性化の度合いがあげられるのではないでしょうでしょか。たとえば日本が極貧な倫理的な国、北朝鮮が豊かな不条理な国であった場合にどうでしょうか。それでも日本が「正しい」といえるでしょうか。

しかしこの疑問は愚問かもしれません。なぜなら経済的な発展と倫理的であることには関係があるからです。倫理的な社会が豊かであるのは、産業革命以降、自由と平等が良質な労働力と消費者を生み出したと言えるからです。ただしこれは倫理的な社会をめざせばかならず豊かになることではありません。後進国には倫理的であろうとしても貧しい国は多くあります。しかし不条理な社会のままで資本主義的発展は困難であるということです。

だからボクたちの倫理的な「正しさ」への期待は、豊かさへの期待と切り離すことはむずかしい。倫理的であろう、正しくあろうことは、そうすれば幸福という「豊か」への期待が隠されています。当然それは決して満たされることはないものです。そして満たされることがない故に有効であるということです。




倫理が負債感を生む


逆にいえばある程度豊かな社会を生きるボクたちにとって、不条理を受け入れることはいまの豊かさから排除される恐怖としてあります。だからボクたちは、まわりにあふれる不条理をないことのように抑圧し、社会が倫理的であるようにふるまおうとします。そして表出する間違ったこと、例外なこと、悪いことを嫌悪し、恐怖するのです。

そして不条理に見まわれたとき、それはとても一般的なことですが、「(社会は倫理的なのに)なんでオレだけ」と、倫理的な正しさとの差異を負債感として受け取り、社会への恨み、復讐心をもちます。




だた生きるという「純粋な生の力」


不条理を不条理として生きるとは端的にいえば動物のように生きるということです。動物は与えられた環境の中で懸命に生きる。不遇であってもその中で絶望することなく、ただ生きるだけです。しかし倫理的な社会では、人が動物のように「ただ生きる」のは「馬鹿」だと考えられます。倫理という正しさであり、知恵と努力によって、運命は切り開くことができると考えられます。

しかしここでは、不条理を不条理として受け入れること、世界は不平等で不自由であるという現実を受け入れることへの恐怖があります。不条理を受け入れることは知恵、努力を否定することではありません。どのように知恵、努力にかかわらず、世界の偶有的な不条理性から逃れることはできないことは一つの事実です。そしてこの不条理を不条理として受け入れる恐怖に立ち向かうのが、だた生きるという「純粋な生の力」です。




「倫理的な社会」「不条理なセカイ」の間で宙づりされる「不条理な社会」


「倫理的な社会」が生む負債感は復讐心、絶望によって、倫理的な社会の円環の中に人をとどめます。それに対して「純粋な生の力」はその円環を越える力です。それはただ不条理に立ち向かう活力というようなものでなく、倫理の外にあり不条理そのものを生み出す負債感なき暴力でもあります。だから倫理的な社会は、不条理とともに「純粋な生の力」がないよう抑圧してきました。

不条理を不条理として受け入れること、ありのままに(不条理な)世界を受け止めるということは、負債感なく不条理を受け入れ、そして罪悪感なく不条理を行使することを引き受けることです。人には根源的にこのような「純粋な生の力」への欲望がありますが、「不条理なセカイ」は動物の世界であり、人間には不可能な領域です。

人は「倫理的な社会」「不条理なセカイ」の間にある「不条理な社会」という宙吊りを生きるのです。
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