なぜネットコミュニケーションは地球を救うのか 

pikarrr2006-07-29

シミュラークル化した社会


労働価値説におけて、労働とは自然から生産するという労働観に根ざしている。そしてこのような労働観には自然のもつ「無垢性(未知)」を開拓する快楽としてもあるのではないだろうか。

近代以降、分業化が進み「労働」は自然と切り離され、自然の「無垢性(未知)」を開拓する快楽から切り離されていく。そして分業化による生産効率の向上とともに社会がある豊かさに達すると、人々は無垢への快楽を「消費」に見いだしていく。

消費社会における商品は単なる使用品でなく、たとえばブランド品のように無垢を「演出」する商品である。このように消費社会では無垢は自然から得るのでなく、労働によって産出されていく。これが「シュミラークル化した社会」である。

「無垢」の産出は市場における新たな無垢の競争を引き起こし、強迫的に人々の無垢への欲望を刺激する。そしてここで生まれた負荷は、分業化によって社会から隔絶された自然に向けられる。自然はただ資源として略奪されつづけ、環境破壊を生む。




シミュラークルを加速する情報技術


ボードリヤールシミュラークル論は、マルクス主義的生産社会から消費社会への移行として書かれた。現代はそのころに比べ、情報化社会としてさらに変化している。

その変化の一つとして、情報処理技術によってシミュラークル性がさらに加速されている。たとえばゲームやCGなどによって、ヴァーチャルな世界はよりリアルなものとして、臨場感ある無垢な世界を演出する方向に向かっている。

このようなヴァーチャルな世界は、かつての無垢としての自然のメタファーとしてある。情報処理技術の向上は、疑似自然な映像表現を可能にするようになったのだ。




ネットという「未知な新大陸」


しかし人々がネットへ向かうとき、情報化社会は異なった方向に変化しているように思う。ネットで求められているのはヴァーチャルなリアリティではない。そこで行われているのは画像でも動画でもないテキストベースのコミュニケーションである。映像によるリアルな世界よりも、ネット上の「野蛮な未開社会」の方が、不確実で、危険で、ワクワクする、「無垢」に溢れているというわけだ。

ネットもまた自然のメタファー、「未知な新大陸」として語られる。しかしネットが「未知な新大陸」であるのは、新しいテクノロジーが次々投入されるためではない。「ネットの無垢性」は社会的な役割が消去された「剥き出しの人々」が出会い、そしてわかりあえるようでいて決してわかりあえないという未知=「他者性という無垢」による。それは予測不可能な他者という無垢な自然の表出なのである。




他者性という無垢


わかりあえるようでいて決してわかりあえないという「他者性という無垢」は、無垢そのものの本質を表している。原始社会において、自然の恵み、自然災害は、そこにはすれ違い続ける自然神という他者との対話としてある。それが「自然の無垢性」である。

あるいは消費社会では、誰もがその商品を欲しがっているが、また誰も手に入れていない故に欲望される。それは商品の向こうにいる「大衆」という他者との決して分かり合えない対話である。たとえばオタクも「萌える偶像」が想起するセクシャリティな他者(自己)との対話である。それが「消費の無垢性」である。




ハイパーリアルな消費社会


ボードリヤールは消費社会をシュミラークルな社会と言ったが、「無垢」とはその太古から人々の欲望を想起する欲望の対象であり原因であるリアルな「幻想(シミュラークル)」なのである。

だからボードリヤールがシュミラークルを強調するときは、「ハイパーリアル」がキーワードになるだろう。リアル(なシミュラークル)をハイパーリアル(なシミュラークル)にする消費社会の特性とは対話する「他者」との距離に関係しているのではないだろうか。

「自然の無垢」では他者(自然)は現前化し対話するのに対して、「消費の無垢」では他者は商品の向こうのにしかなく、マスメディアによる演出の中で無垢は創発的に虚像化する。またネット上でも同様にも活発な情報交換によって創発的に虚像化(デマ、噂)する。しかしネット上では他者が疑似的にでも現前化し、対話するのである。

すなわちボードリヤールがいうハイパーリアルとは、「他者」との対話における物理的な直接性からの解離を示しているといえる。




コミュニケーション(シミュラークル)社会は地球を救うか


だからネットコミュニケションはハイパーリアルでなく、リアルなのであり、ネットの出現は人々を「疑似自然」へ回帰させているのだ。またネット関連の労働は、グーグルのように、人々がコミュニケーションする場を作り出すこと、あるいはそのような場でテクストを書くことにある。これらは、疑似的な「自然」との関係に似ていないだろうか。

そして希望的には、このような「消費(シミュラークル)社会」から「コミュニケーション(シミュラークル)社会」への変化は、人々の無垢への欲望を消費からネットへ向かわせることで、過剰な消費を押さえ、資本主義社会では回避不可能と言われる自然破壊を回避する可能性があるのではないだろうか。

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