なぜ「自然」は歴史的産物なのか

pikarrr2006-08-03

■人間誕生の管理
 
考える名無しさん
マルクスによれば、資本がそれ自体ではどうにもならないものに自然資源と労働力の再生産の2つがありますね。

自然主義的闘争の立場では、自然資源=環境というものは市場のコントロール化におかれるようですが、労働力の再生産というものはどのように位置づけられますか。つまり家族です。家族は市場化されるでしょうか。人間を労働者として育てる装置は整ってますが、人間の出産は自然に委ねられるものですね。これをコントロール化におくかどうか。

ぴかぁ〜
労働力はかつては階級制で確保されました。簡単には上層/下層に管理と労働の境界があります。たとえば「領主と農奴です。

近代以降では、この境界が人間の中に入ってきます。自由と平等のもとに、自律した主体は心身二元論化されます。自らの労働力としての身体を管理する心という図式です。これはフーコーの規律訓練権力と生権力に対応します。そしてこのような自律した主体を育てるものとして、学校とともに「家族」があるのではないでしょうか。

出産は自然に委ねられるものですが、明らかにこれらの環境に依存しています。

考える名無しさん
過去ではなく、これからはどうなるでしょう。資本は労働力の再生産をその外部=自然に依存しなければならない。という命題は、これからも定式化されるでしょうか。それとも何らかの技術革新なり何なりでコントロール化するでしょうか。

また、あらゆるものを市場化する資本の運動は、家族を市場化するでしょうか。自然資源までも統御化においてしまうと、資本にとって最後の自然のフロンティアは家族だと思います。恐らく市場化に最も抵抗するのは家族でしょう。

ぴかぁ〜
先に言ったように、家庭、出産はすでに、聖域ではないと思います。古典経済学でも、マルサス人口論しかり、人口は経済発展の調整項でしょう。またドゥルーズもいうように「家庭」は資本主義的産物です。

中国のような国家による人口抑制政策というよりも、すでに先進国で少子化が進み、人口が減少に転じるような傾向に表れているのではないでしょうか。

後期資本主義に対応して、かつてほど労働力は必要とされていない、そしてそれとともに「家庭」の機能が低下していると見ることができる。最近では子供を持つことは労働力確保よりもむしろ「娯楽」に近づいている。出産も経済にあわせて「自然に」調整されていると考えることができます。

ぴかぁ〜
しかし将来的にこのような「自然の」調整だけでは困難である可能性があります。次の時代は、「自然略奪の時代」から「自然管理の時代」へ向かいますから、自然としての身体の管理が行われる可能性は高いですね。

ではSFのように試験管ベイビーなどで出産は生産管理されるのか。そこまではないように思いますが、遺伝子工学という自然としての身体の開拓はどのような未来を開くかは、未確定です。すでに遺伝子管理された作物は一般的です。クローンはないように思いますが、生まれる間に遺伝子異常があると治療されるなど、人間の誕生が管理的になる傾向はあると思います。

また地球レベルの問題として、環境問題と人口問題がありますが、環境問題ではどこか地域で生まれた環境破壊が地球レベルで影響するのに対して、人口は基本的に国家が管理するものです。後進国で増え続ける人口はその国の貧困を広げるだけで、先進国とは断絶されています。

とはいっても、移民問題など、そう単純ではありませんが、人口問題は宗教的な中絶問題とも絡み、環境問題と違い、簡単に地球規模で解決する問題ではなく、倫理が絡む国家イデオロギーの問題です。

考える名無しさん
『アンチ・オイディプスにおいては、主目的としてラカン派への攻撃があったが、資本の「生産性の自然な上昇力」として、マルクスによる経済的下部構造以外にそれを規定するものがあること、つまりエディプス・コンプレックスによる主体化=労働力の再生産という規定要因があることを明るみにしたことが功績の1つでしょう。

ここで腑分けすれば、ドゥルーズにおける家族が資本主義の規定要因として機能しているという指摘と、労働力の再生産が人間の生産=出産という自然の与件に委ねられるというマルクスの定式とは違う、ということです。




「自然」という歴史的産物
考える名無しさん
根本的な疑問だけど、自然主義的闘争という場合、「自然」という観念あるいは概念をいささか素朴に使っていないだろうか。「自然の恵み」と言っているけれど、そうした「自然」は、ある特定の時代に作られた、認識論的な装置−歴史的産物ではないのか、と疑ってみる作業が必要ではないか。ニーチェのように系譜学的考察によって。

「自然」を人間にとって自明のものであるかのように素朴に使ってしまうと、ある特定の時代に作られた認識論的装置であるにも関わらず、それに定位して、歴史の各発展段階にそのような「自然」と人間との相克を読み込む、ということにならないかと疑ってみることができると思う。つまり、ある時代に作られた歴史的産物である「自然」という認識論的装置を「歴史」「投射」している思考になりはしないか。

ぴかぁ〜
自然主義闘争論の根底にあるのは、人は「普遍的」に純粋略奪の快楽(フロイトのリビドー(欲動)に近い)を持つということです。ボクがいう「自然」とは純粋略奪の快楽が向かう対象を意味します。

これがマルクス、柄谷と決定的に違います。彼らはこのような欲動を、近代という認識論装置の産物、資本主義的悪であって、これをなくし自然との調和を目指すことで、史観が止揚されるわけです。

それに対して、自然主義的闘争では、人間は自然と調和などできない。太古には調和していたという見方こそロマン主義的な現代の認識論装置の産物であり、その時代時代で人々は自然と死闘を繰り広げてきたのだ。そしてそれは生きるためだけでなく、死闘自身が快楽なのだ、ということです。


人は生きるために自然と闘争するのではない。それが純粋略奪(暴力)の快楽だからむかうのだ。 「他者」への暴力から負債感を払うことはできない。動物のようにただ殺すことは、「ホモサケル」であ ろうと完全には不可能である。ただ無限の未知である自然への暴力だけが負債感ない暴力を可能 にする。

ボトラッチという自然への純粋贈与の本質は純粋略奪(暴力)なのである。純粋略奪の快楽の系譜 はポトラッチから、野蛮人(異教徒)との闘争をへて、科学による自然征服へ至り、現在はネットとい う疑似フロンティア(自然)の開拓へもむかっている。

試論:自然主義的闘争史観 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20060728
考える名無しさん
このように言うときの「自然」というものが、まさに歴史的に形成された観念形態ではないのか、ということです。太古の自然との調和にしろ、闘争にしろ、そのときに使われる「自然」という言葉の起源を問わないでいいのですか、ということ。

例えばホッブスなら「自然状態」は万人の闘争状態と言うだろうし、ルソーなら「自然状態」は調和したロマン的な状態を夢見る。この時代にある「自然」観というものは、明らかに歴史的に形成された ものでしょう。古代哲学に認識論は無かったけれど、ギリシア哲学の主流である「自然哲学」を唱えていた人たち、デモクリトスでも誰でもいいけど、彼らに現前している「自然」は、やはりホッブスなどの時代の「自然」とは異なったものとして現われているでしょう。

夏目漱石が研究した18世紀の英文学に現われる「自然」概念も、それらとは異なったものでしょう。こうしたことを鑑みれば、「自然」も、やはり1つの歴史的に形成された「自然」観に則っている可能性があると疑いが生じるでしょう。そうした「言葉」「観念」「起源」を問いましょう、ということです。

ぴかぁ〜
いやまさにボクは、歴史的に形成された観念形態としての「自然」のことを言っているのです。

人はそれぞれの時代で、欲動の向かう対象として「自然」を作りだし、闘争するわけです。ボクが自然を「未知」「無垢」と呼ぶのはそのためです。人がそこに何かがあるだろうと欲望を想起する「無垢」が自然であり、そこに本当に何かがあるかでなく、あるだろうことで、略奪したくなる対象なのです。

だから「自然」がなにかよりも、それぞれの時代に「自然」は作られ、闘争するのです。人は生きるために自然と闘うだけでなく、そこに未知(の幻想)があるから向かうのです。

先も言ったように、自然主義闘争論の「時代性」を問題にするなら、「自然」でなく、欲動至上主義的なところでしょう。そしてこれは否定神学的でもあるかもしれません。

フロイトラカンも欲動を根底においていましたし、それをより史観に展開したのが、ドゥルーズですね。ドゥルーズ精神分析を批判しながら、まさに精神分析的であることはよく良く言われますが、「はじめに欲動あり」それがコード化されることで歴史を語るわけです。ボクの自然主義的闘争論はその系譜にあるのですね。

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*1:画像元 http://www.7andy.jp/books/detail?accd=31327990

*2:本内容は、2ちゃんねる哲学板「純粋略奪の快楽(自然主義的闘争論) 」スレッド http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/philo/1151086281/745-773からの抜粋です。ただし内容は必要にあわせて編集しています。