「動物化」とはなんだったのか? 「動物化」をめぐって その1

pikarrr2007-07-06

コジェーブ的動物化デリダ動物化


動物化を二つに分けて考えましょう。

コジェーブ的動物化

コジェーブはハイデガーの現存在を繋ぎつつ、ヘーゲルの人間/動物の形而上学的二項対立から人間を考えます。そしてコジェーブは消費文化に埋没するアメリカ人をみて、ヘーゲル的人間というよりも、動物のようだと考えます。だから形而上学動物化です。ラカンがコジェーブを師と仰ぎ、フロイト+コジェーブ(ハイデガーヘーゲル)として、精神分析的人間を思考したのは有名です。

デリダ動物化

デリダは、このようなヘーゲル的、ラカン的人間/動物を形而上学的二項対立と考えて、脱構築します。人間が動物化しているのではなく、人間はそもそも人間であり、また動物である、ということです。これは「倫理的な動物化です。

では東の動物はどちらか、まず脱構築されたところのデリダ動物化の意味を持つでしょう。そもそも精神分析的な強い人間は存在しない。だから人間も動物もどちらが正しいということは脱構築されているでしょう。

それとともに、コジェーブ的な動物化でもあります。だから東の動物化という言葉は、つよい力を持ちます。たとえば、勝ち組負け組、山女壁女と同じ、形而上学的な力をもつのです。そしてオタクはそれに感染しています。東の動物化にある種の選民性の匂いを嗅ぎつて、東をオタクの救世主として仰ぐことになります。




人間/動物のヒエラルキーの構造


そもそも、人間/動物の形而上学的二項対立は、ヒエラルキーの構造にあるわけです。哲学ではずっと動物とは違う人間とはなにかと考えられてきました。人間/動物は、哲学そのものがもつ形而上学的二項対立です。アガンベンはこれを「人文機械」と読んで、哲学と同じ元の考えています。哲学って、人間が特別であることを前提に成り立って来たわけです。ここでいう動物は、獣だけでなく、奴隷とかも含めての意味です。

たとえばアフリカ奴隷があれほど、悲惨に扱われたのは、彼らが人間ではなかったからです。これはほんの最近の事です。18世紀の産業革命後に世界博覧会などで、チンパンジーなどの頭の良い猿が欧州に持ち込まれたとき、人間か、動物か、真剣に話し合われました。あるいは、「人は生まれか、育ちか」と議論があります。これはようするに、人間とは人間として生まれるのか、、教育して人間になるのか、です。これは最近の遺伝子研究でも続く議論です。ここにも人間/動物のヒエラルキーの構造、すなわち選民主義が働いているのです。デリダが、人間/動物の形而上学的二項対立を脱構築するというのは、このようなヒエラルキー、選民主義を挫くと言う意味で、倫理的なのです。




「揺れる」ZARD理論


しかしオタクが動物化に熱狂する姿をみると、いかに脱構築するということが難しいかわかります。精神分析はこのような人間が脱構築に逆らい、人間/動物の形而上学的二項対立に執着する(欲望する)ことを示します。

これは、動物と人間の間を揺れ動くようなイメージでとらえるとよいでしょう。デリダは人間化を動物化へ引き戻し、ラカン動物化を人間化へ引き戻す。ともに倫理的には、どちらに落ちてはいけないよ、ということです。これがデリダラカンが裏表というようなことが言われる理由です。

(精神病)<動物>  A←動物化揺れる想い)人間化→B  <人間>(否定神学神経症

このZARD理論」で考えると、デリダ動物化としてのA方向が、熱狂しているうちにコジェーブ的動物化B方向へ転倒している。オタクの否定神学の中心に東(の動物化)がいる。そして神経症的に東に転移している、ことが起こっています。




転倒する動物化


社会のアーキテクチャー化が動物化へ作用している。そして反動で人間化への転倒が起こるということは、様々な人の現状認識でしょう。そしてこの転倒が「小さな物語」としてなんとかなる、オタクは楽しくやってるだろうというのが東です。正確にはこれはオタクの動物化というか、アーキテクチャー化に順応する人間だとおもいます。

それに反して転倒を問題にするのが宮台、大澤、北田などです。その転倒に危険性を感じます。2ちゃんのネットウヨや、オウム的な信仰への感染、小泉フィーバーなどなど。すなわちネグリの帝国とマルチチュードですね。マルチチュードとはだれか?

一時期、宮台のウヨ発言が話題になりました。悪性に転倒し変な宗教などに走るのは、日本には正しい転倒先(宮台はサイファと呼ぶ)がないからだ、と考えました。宮台は日本人のサイファ天皇だろうということでウヨ発言したのですね。最近は作戦をかえて、アーキテクチャをエリート的に作り替えれことをめざしているようです。




動物のように扱う/扱われることをお互いに望んでいる社会


ボクは動物化を人間が動物化しているのではなく、社会システムが、人間を動物のように扱おうとしているということではないかと、考えます。注意するより、椅子を固して客の居座りを避けるような(東がいう)環境管理権力が、マックにとっても、客にとっても楽な社会になっている。動物のように扱う/扱われることをお互いに望んでいる社会である、ということです。

だからといって東がいうようにただアーキテクチャー化に順応するとは考えません。どこかで転倒し、自らを見いだすために人間化する。そしてそのためになおさら「重要ではないこと」は、動物のように扱う/扱われることを望む。

新たな荒野にはまだなにかがある。とにかく自由にさせろ。現実社会はただすみやかに効率的に運べばよい。これこそ重要だ。

ボクたちがマクドナルドへ向かうのは、ボクは食事をする以上に重要なこと(フロンティア)と戦っているためである。フロンティアなサバイバルでは格差社会も仕方がないし、重要ではない。これは、ネオリベラリズムが見せる幻想だろうか。引きこもり、マンガ喫茶難民、団地の一室での孤独な身体がみる夢だろうか。


「なぜボクたちはマクドナルドへ向かうのか」 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20070319


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*1:画像元 http://wezard.net/