動物化したら何が困るのか 「動物化」をめぐって その2

pikarrr2007-07-10

考える名無しさん
動物化したら何が困るのか教えてください。

考える名無しさん
動物化はできるできないじゃなくて、人間工学が進んだ結果避けられないもの

考える名無しさん
「東京から考える」ISBN:4140910747)の北田のような態度は確かに必要かも知れない。ただその「人間的」なものが本当に必要なのかどうか。必要ならなぜ必要なのか。人間工学は快適な環境を提供してくれるけれど、その先、動物化する流れがなぜいけないのかということは誰も言えていない。社会学者よりも哲学者がもっと強く非難しないといけない立場なんだけどね。

第三の波平
工学的、そして経済学的にいうと以下のようになる。ボクはこれを「高速欲望」と呼ぶが、明らかに動物化だよね。isedでは「3秒ルール」の話として出ていたね。

2ちゃんねるとは板、スレと興味に分類された場にすみやかに到達し、耐えず誰かがいてすみやかにコミュニケーション可能である。ケータイメールが爆発的に普及したことからもわかるように、コミュニケーション、簡単には「おしゃべり」は基本的なゲームである。「欲望とは他者への欲望である。」ゲームは基本的には他者とのコミュニケーションを元にしているといっても良いだろう。

だからネット上で重要なコンテンツとして、効率的に高速に欲望を充足するようなコミュニケーションが上げられるのだ。この場合の効率化とは情報が適切に伝達されたという意味ではなく、逆に適度に失敗すること、そこにコミュニケーションの楽しみが生まれるからだ。

グーグルが求められるのは、効率的に望む場へ到達する時間の効率化であることで補助的なものであり、ネットの原動力は、効率的に高速に欲望を充足するような、ケータイメールや2ちゃんねるmixiなどのコミュニケ−ションメディアである。このような原動力を生み出す場として、スーパーフラットであり、自生的秩序が望まれ、ネットはリバタリアン化するのだろう。
「なぜネットはリバタリアン化するのか」 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20070708
これにポスモダ文脈の精神分析的な人間を重ねると、動物化の反動として、「人間化」が現れるという危機感がある。また東も同じ構図を持っているとおもうよ。

それでは、なぜ情報技術はこのような二面性を帯びているのか。前回までの議論で明らかになったように、それは実は、私たちの生がそもそも二面的だからである。私たちはつねに「人間的」「主体的」「能動的」「市民」として生活しているわけではない。むしろ、私たちの生活の大半は、目の前に積まれたタスクを「動物的」に惰性でこなし、与えられた商品やメディアで何となく渇望を満たしていく、「非主体的」「受動的」「消費者」としての時間で満たされている。アーレントの言葉を使えば、私たちの生は、「活動」の領域と「労働」すなわち「消費」の領域とに大きく二分されている。

そして、情報技術革命がもたらした個人のエンパワーメントは、この両者の特徴をばらばらに強化し先鋭化する役割を果たしている。言い換えれば、情報社会の到来は、人間をより人間的にすると同時に、ますます動物的にもする。
「情報自由論」第11回 東浩紀 http://www.hajou.org/infoliberalism/
考える名無しさん
そこで言われる「人間的」が今や想像不能になってるんじゃない?少なくとも私のような動物に想像できるようなものではなくなってる動物化は実体として捉えやすい一方で、人間的(人間化)はどうしても形而上で戯れているようにしか思えない

波平は動物化の揺り戻しとして人間化がくると予想してるようだけど、そんなことを起こすだけの人間性が今の動物に備わってるか不明。動物を啓蒙することなんて到底無理だろうしねぇ

第三の波平
人間的をカントの理性主義的なものとしてとらえているんじゃないかな。ここでいう人間とは構造主義的で、無意識言語的だよ。「無意識は言語のように構造化されている。(ラカン)」

言語とは共同体的に共有され、他者が作ったものだ。すなわち他者がインストールされている。動物は言語以前の生理的なもの。遺伝子という言語なんていえるけどね。だから人間は人間的で、動物的である。

人間は言語をインストールされ、起動する。しかし言語がまたいい加減なOSでさ。たとえば「私とはなに?」に答えられない。自己言及にフリーズしちゃうわけ。だから(大文字の)他者(神とか)に「私とはなに?」かを聞き続けちゃう。この不完全性を補うあう故に他者が必要で共同体が求められる。ひとりだとフリーズしてこわれちゃうんだよ。

でも工学化はこの不安を高速な快楽をあたえることでごまかす。それが動物化ね。動物化でごまかしていても、人間であることはかわりがないから、あるとき発作的に「私は何?」が回帰する。こうなると大変で極度な不安から、安易な共同体に感染しようと暴走しちゃう。オウムの暴走、2ちゃんの祭り、小泉祭り、ゆーちゃん大好きとか。

人は郵便的、幽霊で居続けるほど強くない。どこかで人間化する。すなわち私とはこれだという充実を求める。入れ替え可能な個体として、こだわり、ブライドがなく生きることはできないよ。だれだって本当に大切なものを傷つけられれば切れて、戦うよ。

考える名無しさん
波平のいう「高速欲望」だったり3秒ルール的なものはわかるよ。で、そこで誤魔化されている人間的欲望が、発作的に暴動として表れるその例としてオウムやねらーの祭りが挙げられる。流れとしては理解してるつもり

ただオウムや2ちゃんは動物を取り込むための装置に過ぎないんじゃないか。結局これも動物を扱うための環境管理なんじゃないか。他者を求める、自己を確立したいという人間性があるのはわかるけれど、その人間性すら管理されて与えられる社会システムにおいて、それは人間的なのかどうか。波平の話だと揺り返しによってプレモダン的な物語が復活するような要は自分を意味づけてくれるような幻想があればいいと言ってるように聞こえる。そんな幻想いくらでも管理して与えてくれるんじゃない?それでも物足りないと思うのかね

第三の波平
どちらにしろ、動力は人間的な欲望であると思うわけ。動物は充足して、暴走はしない。欲望は、止まることはない。満たされた瞬間にズレる。だから工学化は高速に対応する必要がある。この欲望のズレと、工学的なフィードバックの戦いがあるわけ。たとえばマーケティングは必ず失敗して、流行は予測不可能なところから、現れる。

この環境管理と対抗するところに、創発性というのがあるわけです。ネットでいうと、サイバーカスケード。暴走する高速欲望は管理されるのだろうか?環境管理はただ、暴走への防波堤ではないのか?グーグルってほんとに世界征服できるの?

考える名無しさん
いやだから波平の言う「人間的揺り戻し」っていうのは人間的なものを再び求め出すってことじゃないの。結局、動物は暴走して物語に回帰するということでしょ?そしてそれが人間的で正しいと。

第三の波平
ZARD理論に戻りましょう。

これは、動物と人間の間を揺れ動くようなイメージでとらえるとよいでしょう。デリダは人間化を動物化へ引き戻し、ラカン動物化を人間化へ引き戻す。ともに倫理的には、どちらに落ちてはいけないよ、ということです。これがデリダラカンが裏表というようなことが言われる理由です。

(精神病)<動物>  A←動物化揺れる想い)人間化→B  <人間>(否定神学神経症

このZARD理論」で考えると、デリダ動物化としてのA方向が、熱狂しているうちにコジェーブ的動物化B方向へ転倒している。オタクの否定神学の中心に東(の動物化)がいる。そして神経症的に東に転移している、ことが起こっています。
「「動物化」とはなんだったのか?」 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20070706
このZARD理論では人間とはそもそもA-Bと揺れる存在ということ。たとえば先の「情報自由論」の東の言説、「情報社会の到来は、人間をより人間的にすると同時に、ますます動物的にもする。」とは、工学化によって、A−Bの振幅が大きくなっていると考えることができる。ボクがいうことも同じことで、動物化Aするから揺り戻しとして、人間化Bが起こる。

だから人間化でいっていることは、「プレモダン的な物語が復活する」ようなことではない。大きな物語はA−Bの振幅を押さえて、安定させる働きがあったと言える。情報化社会では、大きな物語が解体され、A−Bの振幅が大きくそして速く不安定になる、ということ。

この不安定さをいかに扱うかが、問題点。たとえばこの大きな振幅の不安定な揺らぎに創発性は生まれる。だから現代は創発性の時代といえる。このような創発性、ハイエクのいう自生的秩序を自由主義の基本として善として、そのために規制を最小限に自由な場を提供するのがリバタリアン的立場。

ここに不安定さをみる、あるいは規制をなくせば強者の論理がとおり、かなずしも自由な場にならない、だからある程度の秩序が必要がリベラル的立場。東がリバタリアンを自称するのは、政治でなく、環境管理技術が創発性を管理すると考えるからかな。東らしい楽観主義。



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*1:本内容は2ちゃんねる哲学板「東浩紀スレッド78」 http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1183802057/からの抜粋です。内容は一部修正しています。

*2:画像元 http://www.jiten.com/index.php?itemid=3678