情報化社会は脱構築する、とはどういうことか 現実とはなにか2

pikarrr2008-03-17


吉永小百合と優香


かつての映画スターへの熱狂は、いまの人気タレントのものとは違った。彼らは一般の人とは明らかに違う特別な存在であった。たとえば吉永小百合がスターであるのは、彼女が特別なスター性を持っていたから、必然である。いわば何度同じ時間(経路)が繰り返されようと、吉永小百合はスターになるのだ。

それに対して、いまの人気タレントは、これほどの熱狂をえられない。かつてのスターはその超越性を守るために情報公開は管理され、都合より神話だけが公開されていた。しかしいまのタレントはもはや情報を管理することは難しく、スターとは呼べないような情報も公開されるし、人気を獲得する経路も公開される。それによって、人々が「なんだ、ただの人じゃない」ということを知る。あるいは一般人とかわらない親しみやすさが人気であったりするだろう。

たとえば「優香」の人気は、その可愛さ、タレント性などにあるだろう。しかし同じように、あるいはそれ以上に可愛さ、タレント性をもった女性は多くいることを知っている。もはや僕たちはかつてのスターのように特別だから人気があると信じることはでず、偶然に人気を獲得したという一面を知ってしまう。すでにスター性は脱構築されているといえるだろう。




ゲーテル的脱構築


これを、東が言うゲーテル的(否定神学的)脱構築として考えると、ある人が「スター」として熱狂されるのは、偶然、その人がが「スター」の位置にいたからだ、ということになる。そして「スター」シニフィエなきシニフィアン、超越論的シニフィアンである。

レヴィ=ストロールにとっては、交換のシステム、言語のシステムを含む人間の織りなすシステムはすべからく「一挙」に与えられる。世界は一挙に意味があるものとなる。・・・したがってこの見方に従うなら、「マナ」があるから人々がまず贈答や返礼の義務を感じ、次に実際にそれを行うという因果的説明は的外れだということになる。レヴィ=ストロースは、そうした「マナ型の概念」の正体を「浮遊するシニフィアンだと喝破する。それはシニフィエをもたないシニフィアン、すなわち「内容のない形式」「純粋の象徴」なのであり、だからこそ、さまざまな内容を詰め込むことができるのだとするのである。


「貨幣と精神」 中野昌宏 (ISBN:4888489785




デリダ脱構築


それに対して、デリダ脱構築として考えれば、ある人が「スター」になる経路では、その人が「スター」にならなかった可能性(誤配可能性)があった。人々が「スター」に特別性を見るのは、誤配可能性を転倒されて、あたかもスターがあるように考える。東がいう「散種の多義性化」という転倒である。

かつてアリストテレスが名指しされた。名アリストテレスは、そこからさまざまな経路を通り伝達される。それゆえ名アリストテレスはいまや、複数の経路を通過してきた複数の名の集合体である。・・・名アリストテレスにはつねに訂正可能性が取り憑く。

固有名の単独性を構成し、かつ同時に脅かすその訂正可能性を、・・・「幽霊」と呼ぶことができるだろう。名アリストテレスはつねに幽霊に、つまり配達過程で行方不明になってしまった諸々のアリストテレスに取り憑かれている。・・・その経路を抹消して主体の前にある(=現前)固有名から思考するときにこそ、ひとは固有名の剰余、単独性を見いだす。すなわち単独性は幽霊たちを転倒することで仮構される。


存在論的、郵便的」 東浩紀 (ISBN:4104262013




共時的偶然と通時的偶然


どちらの脱構築にしろ、あるのは偶然性の混入である。脱構築という能動的な行為ではなく、情報化社会における大量の情報が偶然性を暴露することで、脱構築が行われてしまっているのだ。

これら二つの脱構築をまとめと、それは偶然の進入の違いと言えるだろう。

ゲーテル的脱構築・・・共時的脱構築共時の偶然(構造上の位置の偶然)に注目することで解体する。恣意性。

デリダ脱構築・・・通時的脱構築通時の偶然(経路上の誤配(偶然))に注目することで解体する。事後性。

印象として、吉永小百合を説明するときにはゲーテル的脱構築「優香」を説明するときにはデリダ脱構築がしっくりくるように思うのは気のせいだろうか。たとえばゲーテル的脱構築で説明されるのは「貨幣」である。ただの紙切れが「貨幣」として人々に欲望されるのは、超越論的シニフィアンの位置を占めているためだ。その位置を占めるものは何でも良いが、たまたまあの紙なのである。

そして「優香」ゲーテ脱構築では説明するには、「強すぎる」ような気がする。いやそれはボクがそれほど優香ファンではないからかもしれない。熱狂的なファンならば、納得するのかもしれない。

これは、ゲーテル的脱構築では共時的な構造が残っているからだろう。ゲーテル的脱構築にあるのは、「ネットワーク(伝達経路)」だけである。しかし逆に「貨幣」のような強力な引力はネットワークとして説明されても、逆にその強い引力がイメージされずに、共時的構造の方がイメージしやすい。

どちらにしても、ネットが発達し、高度情報化社会では、ネットワーク経路という速さがに関係する通時的な偶然の方が実感として近いことが多いように思う。
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