「成功した性関係」とはどういうことか 現実とはなにか4
パースのプラグマティズムマキシマム
パースの言語論における功績は、言語記号−概念の結びつきに、「裂け目」を入れたことだ。記号論では言語記号から意味(概念)が決まるには裂け目があり、そこに解釈項を導入することで、意味が決定される、と言うことだ。
そしてパースはこの「裂け目」に対して、徹底的にポジティブである。それは、パースが測量技師として働いていたことが大きく影響していると言われていわれる。測量では真に対して必ず誤差が出る。そして誤差とは測量の偶然性(不確実性)である。パースはすでに統計学も身につけ、誤差が正規分布で現れるように、管理されるものであることを知っていた。
そしてパースが提唱したプラグマティズムもこの延長線上にある。この裂け目を飛躍することを実利的(プラグマティック)にとらえる。むしろ「裂け目」があり、飛躍できるから人は実利的(プラグマティック)な結果を出すことができる。パースが命題推論に導入した仮定(アブダクション)は従来の帰納よりも、より速く演繹へ至るための飛躍なのである。
パースのプラグマティズムマキシマム(概念を明晰にする方法)
私たちの概念の対象が、実際的なかかわりがあると思われるどのような結果をおよぼすと私たちが考えるか、ということをかえりみよ。そのとき、こうした結果にかんする私たちの概念が、その対象にかんする私たちの概念のすべてである。
「プラグマティズムの思想」 魚津 郁夫 (ISBN:4480089624)
切り裂き魔 ウィトゲンシュタイン
このような第三項の研究は、言語論では、統語論、意味論に並んで、語用論(プラグマティック)といわれる。パースを継承するプラグマティズムは言語論より社会論として展開したこともあり、一般的に語用論は後期ウィトゲンシュタインを継承している言語行為論が中心となる。
後期ウィトゲンシュタインがどの程度プラグマティズムの影響を受けたかわからないが、ウィトゲンシュタインは「暗闇への飛躍」と呼んだように、「裂け目(断絶)」に対する思考はパースに比べてずっとラディカルである。それは日常会話を越えて、「アプリオリな総合判断」と思われていた「数学」や、生理現象に近い「痛み」、さらには認知現象に近い「アスペクトの認知」までにいたる。人の認識行為すべてを切り裂き、そこに「断絶」が存在することをしめした、と言えるだろう。
私が私の感覚を同定するのは、もちろん基準に基づいてではなく、私が人々と同じ表現を用いる事によって、である。しかしそれによって感覚に関する言語ゲームは、実は終わるのではなく、始まるのである。(290)
私が私自身について、私は私自身の場合からのみ「痛い」という語が何を意味するかを知るのだ、と言うとすれば、−私は他人についても、彼は彼自身の場合からのみ「痛み」という語が何を意味するかを知るのだ、と言わなければならないのか?そして、そうであるとすれば、如何にして私は一つの場合をそんな無責任に一般化できるのか。(293)
『哲学的探求』読解 ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン (ISBN:4782801076)
「ドラマ(劇)、ゲーム、テクスト」
ウィトゲンシュタインはただ切り裂くだけではなく、それがいかに繕われるかを思考した。それが「言語ゲーム」論である。しかしその射程の広さから、本質的にこれがなにを意味するのかと、言語論、認知科学など様々な分野で波紋を広げた。
当初ウィトゲンシュタインは「言語ゲーム」と言うことで、コミュニケーションを言葉通りに「ゲームのようなもの」と考えられていた。ゲームとはルールによって限定された領域において、行為を「訓練」によって身につけることが重視される。
しかし検討が進むうちにより、「劇」のようなものとして、深まっている。「劇」の一場面を考えると、そこがどの時代で、どの年代で、そのときの社会的な背景であり、登場人物が社会の中でしめる立場、そしていまこの場面での関係性など「重層的な」関係性がある。そして「劇」ではゲームのような明確なルールはなく、可能性は無限に広がり、コンテクスト(状況)に合った行為を訓練するだけでは乗り切れない多様な場面がふえる。
『哲学的探究』冒頭での言語ゲームとは「ある特定の場面である表現の使い方と行動の型」と大きく越えるものではなかった。ともすれば我々はこの貧弱は言語ゲーム概念がウィトゲンシュタインの言語ゲーム概念そのものであると理解しがちである。しかしそれは彼の「言語ゲーム/劇」概念の進化を見誤ることである。独我論・私的言語・私的対象に関する批判的思考を通じ、ウィトゲンシュタインの言語ゲーム概念は飛躍的に拡張され、単に一定の状況下でも発話行動だけではなく、それを一体化した感情、意図、態度をも含む重層的なものとなったのである。
「ウィトゲンシュタインはこう考えた」 鬼界彰夫 (ISBN:4061496751)
人類学者のギアーツは、このような流れを受けて、コンテクスト分析に「ドラマ(劇)、ゲーム、テクスト」という3つのファクターが必要であると提唱している。そしてこのようなドラマ(劇)という大きな射程のコンテクスト分析(上演論)で有名なのが、ゴフマンである。
ゴフマンに従って「トークを演壇の出来事の一部」としてみるならば、日常会話で普通に語られる過去のエピソードもトークの呈示のなかに埋め込まれたいわば劇中劇である。・・・「演劇家が、どんな世界でも舞台の上におくことができるように、私たちはいかなる参加フレームワークや作成フォーマットでも私たちの会話のなかで演じる事ができる」のである。
ここでコンテクストとなるのは、文化的に共有された解釈枠組みであるフレイムである。人々はあらかじめ「共有されていると思われる膨大な文化的前提をたずさえているのである」突然に埋め込まれるトークがもたらす飛躍や断層は前後の会話とは切り放された別個の解釈フレイムをコンテクストとするトークを生み出す。にもかかわらず、話し手と聞き手との間で、たとえば話し手がフレイムを自由奔放に転換したトークを行おうとも、それが聞き手に理解可能になるとすれば、それは両者の間にフレイムが文化的知識としてあらかじめ共有されており、そのためにそれが転換されても、聞き手も同時にその展開に追随することでそれによってトークの意味解釈の飛躍をこなす事が可能だからだ。
「ゴフマン世界の再構成」 トークと社会関係 阪本俊生 (ISBN:4790704033)
人は適応の無限後退(つまり思索)に立ち往生することもなく、互いの前提をある意味では無根拠に信じて−信じているかどうか、その必要があるかどうかさえ意識せずに−「社会的出会いの世界」に乗りだしていく。いい例が「儀礼的無関心」だろう。とりわけ匿名的な焦点のない集まりで、人は、周りの動作と外見に互いのラインを一瞥し、万事うまくいっていること、互いに前提が自分の前提とするに足りるものであることを確認しては、つぎの瞬間、自分のラインにもどる。悪意や敵意、恐怖や羞恥心がないこと、進行しつつある行為が表出/読解されるラインそのままであることが確認される。共在のなか、事実として互いに儀礼的無関心を運用しあっていることを相互に確認しあうだけで、それぞれの運用の実効性が安心されることになる。・・・人はただ他の人たちと居合わせるという事実にいて、それだけで既存のプラクティスを採用−運用する。いや、せざるをえない。その結果として、共在の秩序が行為の場面場面に形成され続けているのだ。
われわれの経験とは、われわれの経験している通りのものではない。人は、慣習的プラクティスの網のなかにいて、ここかしこでこれを作動させては自分の信念を証拠だてる経験を得、また眠りにもどる。ときたま起こるさまざまなフレイミングの誤作動や破綻は、場のリアリティを揺るがし、むしろそれぞれの場のリアリティのプラクティカルな構成を強化・確定する方向に働く。当面の経験を離脱しようとするにせよ、二次的適応や自己欺瞞に従事しようとするにせよ、あるいはフレイムを掃除/確認したり変容させようとしたりするにせよ、経験のなかにいる限り、人はフレイミングの循環を逃れることができない。
「ゴフマン世界の再構成」 <共在>の解剖学 安川一 (ISBN:4790704033)
ウィトゲンシュタインの超越論
ドラマ(劇)では、ゲームのルールだけではなく、人々に「共有されていると思われる」「信念」が重視されることになるだろう。そしてここで、「ラカンの無意識」(象徴界、大文字の他者)に近接する。
ヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム」をラカン的な超越論(大文字の他者)として理解することはすでに一般的である。後期ウィトゲンシュタイン解読のクリプキも「規則のパラドクス」として、そこに共同体の必要性を示している。しかしクリプキの共同体は実在する共同体である。それに対して大澤はラカンに近い超越論を展開し、「第三の審級」という概念を導き出す。
その他、多くの人が「言語ゲーム」は、「みんな(共同体)」がそのように振るまうだろうという信念によって支えられている、と考えている。そして、ラカン派のジジェクにおいては当然のことだろう。
結論を述べよう。懐疑的解決は、規則と行為について次のような構図を提示した。つまり、規則の共有があるがゆえに、自己と他者との行為の一致が生ずるのではなく、(クリプキがいうように)他者(共同体)によって一致していると承認されないような行為は規則に従っているとみなされないのだ、と。われわれは、この構図を修正すべきであると提案する。行為の妥当性を承認する他者は、特別な他者、そう「第三者の審級」でなくてはならない、と。・・・その他者は、第一次的には、特殊な超越性を帯びた他者−第三者の審級−なのである。・・・私の行為が第三者の審級に承認されているはずであるとの認知を基礎にして、派生する。
「意味と他者性」 大澤真幸 (ISBN:4326152966)
象徴的なレベルでは、「手紙はかならず宛先に届く」という命題は、次のような一連(ヴィトゲンシュタイン的な意味の「一族(ファミリー)」)の命題を凝縮したものである−「抑圧されたものはかならず回帰する」、「枠組みはつねにその内容の一部によって枠をはめられている」・・・究極的には、これらはすべて同じ一つの基本的前提、すなわち「メタ言語はない」という前提のヴァリエーションである。
「汝の症候を楽しめ」 スラヴォイ・ジジェク (ISBN:4480847081)
「成功した性関係」とは
「成功した性関係」とはどのようなものだろうか。性関係を例に上げるのは、コミュニケーションの中でも学習しにくく、失敗することが多いという「断絶」が強調される領域であるからだ。
ドラマ(劇)としての「成功した性関係」とは、文化的な重層的な信頼関係を元にする。性関係は多くにおいて、男尊女卑的な場である。女性が乱れる事は慎まれる。あるいは逆にそれが裏切られるタブーにおいて快楽を生む、とも言える。あるいは、女性は性関係においてムードを大切にするというのもフェミニズムの対象となるのだろうか。さらに最近ならば、性関係はアダルトビデオとの関係が深いだろう。アダルトビデオのような性関係が成功した性関係となるのかもしれない。
ゲームとしての「成功した性関係」は、その性行為の現場に関係する。たとえばA、B、Cという段階が達成されること。あるいは、コスプレなどはドラマ(劇)を演じるのであるが、その場だけの切り替えられたドラマ(劇)は一種のゲームである。このようなフェティシズムはゲームの次元であると言えるだろう。そしてフェティシズムが互いに楽しめた(と感じた)時。
テクストとしての「成功した性関係」は、性行為のより技巧的な問題だろうか。性行為におけるうまい愛撫の仕方、うまい腰の振り方?など。
そしてこれらのコンテクスト(状況)から、できるだけ切り放された「成功した性関係」。これは生物の性行為である。発情期において性的な「シグナル」を出し合って、性行為を行い、生殖する。ラカンが「性関係は存在しない」というとき、人はこのような生物的な性行為は行えない、コンテクストから切り放されて性行為(コミュニケーション)を行う事はできないということだ。
そして「成功した性関係」はこの生物の性行為にしかない。コンテクストに依存した性関係に正解などない。それは成功しているだろうという無意識の「信念」にのみ支えられている。しかしそれを単なる戯れと見てはいけない。先に行ったようにこのようなコンテクスト依存は、性感帯においても現れる。快感は初めから生理的にそこにあるのではなく、経験、訓練の中で開発されるのである。「イク〜」という快感は「もちろん基準に基づいてではなく、私が人々と同じ表現を用いる事によって、である。」
メタ言語(制作)図式
このようなコンテクスト論は、先にメタ言語(制作)図式では、メタレベル2に対応するだろう。言語ゲームが「ゲーム」的にはメタレベル1、「ドラマ(劇)」にはメタレベル2といったところだろうか。
「メタ言語(制作)図式」 (◎はコミュニケーション、◇は制作)
オブジェクトレベル0 (学習0)
◇演繹(ディダクション)・・・論理、アルゴリズム、数学(イコン、インデックス)
◎先天的な生理構造、生物反応(コミュニケーション)
オブジェクトレベル1 (学習1)
◇帰納(インダクション)
◎条件反射(パブロフの犬)メタレベル1 (学習2)
◇仮定(アブダクション)・・・仮説検証、シンボル
メタレベル1.5
◎「ゲーム」的言語ゲームメタレベル2 (学習3)
◇創造的仮定(アブダクション)・・・天才的な閃き
◇修辞(レトリック)・・・アイロニー、詩、物語り、お笑い、脱構築
◎「ドラマ(劇)」的言語ゲーム=ラカンの言語論(無意識)