なぜ金玉は「フレーム問題」に陥らないのか 現実とはなにか9

pikarrr2008-04-21


金玉は行為し続ける


金玉は不思議な形をしている。体から垂れ下がった袋。温度が低いときには縮こまり放熱を妨げ、温度が高いときは、広がり、放熱を促進することで、精子を守る温調機の働きをしている、と言われる。男性ならば誰もが知っているだろうが、金玉が動くのは、ある温度においてではない。陸に上げられたタコのように、たえずうごめき、精子を攪拌し、温度を調整している。これは人が生まれ、死ぬまで繰り返される。

ここに行為の本質がある。行為は機械のように、刺激があり→体が感受し→いかに反応するか検討し→脳が反応を命令し→実際に体を動かす、ということではない。そうではなくて、温度、重力、大気圧、さまざまな圧力がたえず体へ作用し続け、さらには他の神経システムを経由してくる内的な刺激もあり、金玉の動きのように、人は絶えず環境との調整を行い、行為している。

金玉の動きは生理反応であって、意図的な行為とは異なると考えるだろう。それはある意味で正しいが、正しくない。たとえば腕を上げる、歩くなどの能動的な行為において、どこまで意識的だろうか、ほとんどの体の動きは何がどのように行われているか、自らはわからない。勝手に体が動いているのである。

さらには、そもそも行為には切れ目はない。たとえば「歩く」という行為は、なにか。歩くということには足をうごかし進むことだけではなく、手をふる、体の重心をとる、そして目玉を動かし、金玉をうごかすという身体全体としてあり、本人も自ら「歩こう」としているわけではなく、あるいはなにを行っているかは、わからない。それを「歩く」と呼ぶのは、<観察者>が、継続された身体の行為を切り取り、名付け、描写するだけのことである。




オートポイエーシスシステムには「入力も出力もない」


マトゥラーナが示したのは、神経システムが刺激に対して反応するのではなく、「閉ざされた自律性をもった回路をもっち、<世界>と独立に機能している」オートポイエーシスシステムである。オートポイエーシスシステムには「入力も出力もない」といわれるのは、たとえば人が見るということは、光源情報によって外的環境を脳の内部的で映像化しているようなことではなく、神経システムは「見ようとする」ときだけではなく、自律性に「外部環境」なるものを作り出し続けている、ということだ。

ある有機体の、環境における状態変化を観察しながら僕らが行動(ふるまい)を呼ぶものは、ぼくらがさししめしている環境における有機体のいろいろな動きについてぼくらがおこなう描写に、対応する[<描写>が<行動>を生み出す]。行動とは、生物がそれ自身の内部でおこなう何かではなく、ぼくら観察者が指摘する何か、のことなのだ。・・・したがってさまざまな動きの、ある特定の配置としての行動が、適切なものだと見えるなら、その行動はそれが観察・描写されている環境に、依存しているわけだ。ある行動が成功なのか失敗なのかは、つねに、観察者が特定する<期待>によってはかられる。P159

神経システムが世界の表象によって作動していると仮定することの、罠が存在する。そしてそれが罠であるというのは、神経システムがそのときどきにおいていかに<作動閉域>[閉ざされた自律性をもった回路]をもった画定されたシステムとして[<世界>と独立に]機能しているかを理解することの可能性にたいして、人を盲目にしてしまうからだ。P153-154

神経システムは環境から「情報をピックアップする」のでは、ない。その反対に、神経システムは、環境のいかなるパターンが攪乱となりいかなる変化が有機体内に攪乱をひきおこすのかを特定することによって、ひとつの世界を生起させているのだ。脳のことを「情報処理装置」だと呼ぶ通俗的メタファーは、単にあいまいなだけではなく、あきらかにまちがている。P198


「知恵の樹」 H・マトゥラーナ F・バレーラ (ISBN:4480083898

行為は生まれてから死ぬまで終わりない連続で、自律性としてある。そして「歩く」などの行動(ふるまい)は、いわば<観察者>による事後的な名付けでしかない。そして意図とは「自分」という<観察者>による名付けでしかない。




言語ゲームという疑似問題


言語ゲームはいかに可能か。たとえばウィトゲンシュタインの建築家の例で、助手に「石材!」と指示し、助手が適切に物を運んでくる。その語の意味解釈には無限の可能性があるにも関わらず。

オートポイエーティックな行為論から考えると、このような「言語ゲーム」はあらかじめ解が<期待>された目的論的な疑似問題である。「石材!」と言われた助手は、当然のように体を動かしてただ「石材」を運ぶだけである。それは現場で働く一連の流れ(行為)の一部としてある。それが建築の現場において身につけた行為である。仮にそれは違うと言われれば、変更するだけだ。現場(環境)と行為の間のオートポエティックなカップリングとしてある。

連続した行為の中から、言語ゲームとしての切り取りは原理的に無限に行える。たとえば、「石材」という声が聞こえたのは幻聴でないとなぜいえるのか。なぜその石を選んだのか。なぜ石を肩で担いだのか、。なぜ右足から出したのか。なぜその場所へ運ぶのか・・・このような無限の切り取りはゼノンのパラドクスである。すなわち言語ゲームという想定は、連続性の中からの<観察者>の恣意的な切り取りでしかない。

あるいは、人はなぜ人工知能のように「フレーム問題」においてフリーズしないのか。いわば、爆弾を回避するという緊張の場面で、どうすればよい、最適な解はなんだ!と魚竿するのは、新参者の認知系であり、行為系は生命が生まれたときから環境とともにあり、適当に乗り切って来たわけわけで、ドンを構えている、とでもいうことだろうか。(笑)




認知系と行為系の「切れ目」


しかしまたこれを疑似問題と呼べないところに問題の本質がある。動物においてはただ行為するだけで良いだろうが、人の場合には行為するとともに、現に世界を認知する。自らの行為を客観的に認知する<観察者>、すなわち自意識が存在する。だから人においては、認知系と行為系は密接なつながり世界を生きている。

言語ゲームや、人工知能の問題は、単なる疑似問題ではなく、人間にとっては、現前化する。「石材!」と言われた助手が、ふと「石材」の意味することはなんだろうか、と自ら言語ゲームを想定し、認知系ははまりこむと、自然に行為することができなくなり、人工知能「フレーム問題」のようにフリーズする可能性はある。

たとえば慣れていない場面、人々に注目されている場面、好きな人の前など、緊張する場面で行為がぎこちなくなる。いつも自然に行えていたことがどのように行為すればよいのかと、考え出して動けなくなる。このような場面は誰もが経験しているのではないだろう。だから人工知能の疑似問題のように爆弾を処理するような場面では、人工知能と同様にフリーズすることは起こるだろう。

このような自意識過剰になって、日常的な行為に支障をきたすと神経症と呼ばれる。神経症とは何らかの理由で行為系に対して、認知系が強く現れすぎて、自然な行為をすることができなることを言える。言語を巡って治療する精神分析が主に神経症の治療を目的にすることは、認知系が言語行為と密接につながっているためだろう。

認知系とは、<観察者>の位置にたち、連続した行為に言語によって切れ目を入れて、名付ける、ということだ。このような言語の世界からの脱出、すなわち行為系への復帰にはなんらかの「飛躍」が必要になる。

ウィトゲンシュタイン言語ゲームに代表されるように、「日常会話」から「数学」「痛み」、あるいは「認知」まで、<言語記号−概念(意味)>の結びつきに「切れ目」を入れたが、これらは、<観察者>による認知系と<行為者>による行為系の「切れ目」といえるだろう。

知識の形成と身体行為の形成はまったく別の回路であり、しかも折り合うことができそうにない。・・・にもかかわらずそれらの系は密接に連動する。この事態を主題化する新たなカテゴリーが、オートポイエーシスではカップリングと呼ばれる。その典型的な事例が、認知系と運動系のカップリングである。

科学的知識の領域では、全般に認知系が支配的であり、認知系の枠組みを全面的に組み替えることが、パラダイム転換だと呼ばれる。ところがパラダイム転換を行っても、物の見方は変わるが、世界も自己もなにひとつ変わりはしない。運動系(行為系)の巻き込みがなければ、物の見方を変えても、いつまでも元に戻すことができる。世界をさまざまに解釈するのではなく、世界を変えることが必要である(マルクス)。


オートポイエーシスの拡張」 河本英夫 (ISBN:4791758072