「環境-調和図式」と構造主義 その2 <環境-調和図式>3

[試論]身体の政治的な「環境-調和図式」 その1 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20080811のコメント欄より、脂(あぶらすまし)さん*1との議論。


■脂(あぶらすまし)

ラカンには言語外の経験、訓練は排除されているので、重要な指摘はむしろ構造が「不調和」であるという方にあると思います。


同意します。象徴界は二次元的であり、穴が開いている。「重要な指摘は〜」の部分は、わたしはブログでこう表現しています。ラカン論では、二次元でしかないから「こそ」という話になる。この「こそ」がポモの真髄。」

しかし、「存在しない」というレトリックを考えれば、構造に構造外との連絡路としての穴がある、という意味になります。これは、構造内に不調和が残存することからは逃れられないという指摘であり、構造外が調和であることを示しているとは思えません。たとえば「無意識は言語のように構造化されている」という言葉にも同じことが言えます。

構造外が調和であるとしたならば、それこそドゥルーズ=ガタリのような「(構造外としての)無意識とは牧歌的なものである」という主張に陥りはしませんか? わたしはそれには強く反対します。自然淘汰についてもそうです。自然淘汰を調和的なものと思ってしまうのは、それこそ合理論的な志向が強く働いているように思えます。

わたしはラカンの、構造内−構造外の断絶をあえて「理屈では」飛び越えなかったところを評価しているので、こういう言い方になります。症状として解釈すると飛び越えたいと言っているようなものですが。晩年は特に。「断絶の魅惑に屈しつつある」みたいな表現をブログではしています。

彼は、言語や理の限界を知っていたのだと思います。この限界は、(既読でしょうが)こちらの論文(http://www.kojinkaratani.com/criticalspace/old/special/saito/voice0104.html)の十川氏によれば、「精神分析が真に生産的足りうるのは、あくまでも臨床場面において不可能なものの抵抗に出会い、そこにおいて経験的次元と超越論的次元の「絡み合い」が生ずることによる。」の「抵抗」に当てはまるでしょう。

あなたの論は、ラカンがせっかく構造内に持ち込んだ不調和を、調和という構造で飲み込もうとしているように見えます。喩えて言うなら、その理論を心理学化しようとしている。こういった態度は、先の論文にもあるように、ジジェクにも感じられることです。わたしはどちらかというと去勢の否認推奨派なので、それを「否認」と表現する斎藤の言葉について「うんうんそれで?」となります)。

あなたは経験論と仰りますが、先の論文の十川氏の立場を取るなら、それは少なくとも「不可能なものの抵抗と出会」「臨床」ではないと言えるのではないでしょうか。現実界は牧歌的なものではなく、しかめっ面をしているのです。あるいは、それこそ暗黒大陸なのです。

要するに、「構造内」「不調和」は理解できましたが、「構造外」「調和」がわたしには納得できない、ということです。あるいは、それはあくまでも浅田図式と対比した場合の話であり、「構造外」「調和」していると言っているわけではない、と言うなら、あなたの仰る「調和」とはなんなのでしょう? という疑問が残ります。



■脂(あぶらすまし)

>これで漠然と<環境-調和図式>の目ざすところがわかっていただけるのでないでしょうか。


漠然とですが、感染のところにそれを持ってくることで、言わんとしていることは見えた気がします。十川氏が述べている精神分析と芸術の親近性のような感じのことかな、と。ただし、わたしは個人的に社会学に対しては疑問を持っています。社会工学的なイメージが強いのかな? なので管理だろ、とは思います。強制のところの政治学もよくわかりません。
そもそも学問は学問である限り、体系的である限り、訓練か管理になるように思います(精神分析が学問の中で異色なのはご存知でしょう)。

取り急ぎ、疑問に思ったところだけ。浅田図式の志紀島氏の読み解きもわからないところがあり、それと相関させての感想なので、誤読が多いとは思いますが。あ、あと何か構造主義に批判的な文章になっている感じが自分でしたので言い訳しておくと、わたしは結構構造主義者です。



■pikarrr

ボクもラカン好きの一人として、脂(あぶらすまし)さんの指摘はよくわかります。<環境調和図式>はまさに脂(あぶらすまし)さんが指摘したこと=ラカンを乗り越えたいがために考案したのです。

脂(あぶらすまし)さんがラカンをもとに指摘したことはそのまま同意します。その上で話を続けます。わかりやすい例で行けば、ボクが言っているのは「無意識」暗黙知の関係です。ここでいう「無意識」とはラカン「言語のように構造化されている」です。

暗黙知はマイケル・ポランニーが示した「無意識的」なものですが、言語ではなく、身体知です。たとえば自転車にのるために繰り返しの訓練が必要です。そして訓練の末に一度自転車の乗り方を習得すると人は一生乗り方を忘れないと言われます。しかしどのように乗っているのかと聞かれても答えることができません。ただ乗っているとしかいえない。このような身体知はとても一般的なものです。歩くこと、走ること、投げること、スポーツは身体知の固まりです。だからスポーツ選手は訓練(練習)がすべてです。

このような身体知=暗黙知は言語のように構造化されているでしょうか。そうではないでしょう。ラカンの無意識を言語系の知とすれば、暗黙知は運動系の知です。

ここでわかることは、ラカン理論は「性関係は存在しない」というように強烈なほどに言語に忠実であるあまりに、多くが排除されているのです。言語外を現実界へとひとくくりにして、欠如として排除してしまっているのです。なぜならラカン構造主義者という一つの立場を選択しているからです。ドゥルーズであり、デリダであり、浅田−志紀島であり、ラカンに反論し動性を持ち込もうが、基本ベースが構造主義なので暗黙知は語れません。

ここにあるのは、大陸の合理論の流れと英米の経験主義の流れを見ることができます。構造主義(ポストを含む)は前者であり、ポランニーは後者です。後者には分析哲学プラグマティズムなどがありますが、身体知に近いのは行為論としてのウィトゲンシュタインです。ウィトゲンシュタインは言語を問題にしましたが、発話を実践、訓練によって習得するものとしました。無意識ではなく、暗黙知に近いものとして考えました。(説明すると長くなるので省略します。)

調和の話にもどると、自転車に乗れるということは自転車と身体が調和しているのです。歩くということは、重力、大地と身体が調和しているのです。

しかしこの調和をまた一つの疎外として考えることもできます。訓練によって身体が環境に合わされている。自転車がもっと人の体に合わせて設計されていれば、訓練などほとんど必要がないかもしれない。現に初期の自転車はとても乗りにくいものだったようです。このように考えると進化論の自然淘汰「疎外」と言えます。環境に身体形態まで強制されている。(このようなことを言う人はいないと思いますが)

さらに現代は自転車を訓練しなくても、電車に乗れば、訓練がなく、より速やかに移動できるように、移動手段は開発管理されています。すなわち少ない訓練で人と環境が調和される。これは図式上では<訓練>から<管理>を示します。

調和はいつも疎外ですが、<訓練>や<管理>は、人があたかも調和しているように感じることができるということです。これがフーコーが規律訓練や生権力で指摘した権力の形です。<強制>のような明らかな身体的な苦痛を与えず、環境に充足(調和)させる権力ということです。ボクが「調和」ということで意味するのはこのようなことです。



■pikarrr

社会学は多様ですから、社会学をどのように捕らえるかですが、社会工学的や社会心理学的なメージなら<管理>でしょう。

ボクは、政治学、経済学、社会学を、近代に分離して生まれ、それぞれが相補的にカバーする人間学としてとらえました。これは柄谷が社会形態の相補的な要素とした「資本−国家−ネーション」にも対応しています。

A 強制・・・国家=政治
B 訓練・・・ネーション=社会、文化
C 管理・・・資本=経済
D 感染・・・消費、芸術(ショックの経験)


「国家=政治、法」は、現代においても市民のためということではありません。独自の論理を持ちます。これは<強制>(暴力)をもって行使されます。

「資本=経済」は、最近のグローバルなネオリベラルのように<管理>された効率性をめざします。

「ネーション=社会、文化」は基本的には<訓練>だと思います。共同体の道徳、規律は教育、訓練によって伝達されます。そして共同体の成員になります。しかし現代の大きな物語の凋落」が言われるように、道徳、規律が解体しつつある中で、ネットウヨなど、その場その場の盛上がり、<感染>が重視されつつあります。ボクは、文化を研究するという意味では社会学は<訓練>領域の学問といえますが、現代の社会学が社会の流動性を研究する傾向が強いというイメージから<感染>領域の学問に位置づけました。

再度言えば、(共同体の)文化は基本的に<訓練>の領域ですが、経済=消費型の文化は<感染>の領域でしょう。精神分析と芸術の親近性」もこのような意味で理解されるのではないでしょうか。アガンベンの指摘のように近代化において、芸術は生活から乖離し、創造と破壊を求める、「ショックの経験」へと向かう。マーケティングはこのような「ショックの経験」を商品化する研究ではないでしょうか。

ボードレールは、新しい産業文明における伝統的権威の解体に直面せざるをえなかった詩人である。それゆえ、彼は新しい権威を発見しなければならない状況にあった。つまり、彼は、文化の伝承不可能性そのものを新しい価値に転化し、芸術作品自体のただなかでショックを経験させることによって、この課題を成し遂げたのである。ショックとは、ある特定の文化秩序のなかで事物がもっていた伝承可能性や理解可能性が喪失するときに、事物が帯びることになる軋轢の力である。もし芸術が伝統の崩壊を生き延びようとするならば、芸術家はショックの経験の根底にある伝承可能性の破壊そのものを作品の中に複製しようとつとめなければならない。・・・異化価値を生み出すこと、それは現代の芸術家に特有の課題となったのである。P157-158

芸術は、みずからの保証を失うことよってしか保証されないものを保証する必要に迫られるようになる。職人の謙虚な活動はかつて、人間に仕事=作品の空間を開示し、そうすることで、伝統がみずからの過去と現在を絶えず結びつける場所や対象が構築されてきた。しかしいまやそれが、天才の創作活動にとって代わられ、美を生産せよという命令が重く圧しかかることになる。この意味で、美を芸術作品の直接の目的と考えるキッチュは、美学特有の産物といえるのであって、同様に別の面では、キッチュによって芸術作品に喚起される美の亡霊こそ、美学が基盤を見出している文化の伝承可能性の破壊にほかならないのである。P163-164


「中身のない人間」 ジョルジョ・アガンベン (ISBN:4409030698

■pikarrr

ついでなので、今ボクが考えている、暗黙知と無意識の関係を突き詰めてみます。

暗黙知−行為論を突き詰めると、ラカンの無意識への不信感が生まれます。身体知を排除して、構造主義という合理的な世界が組み立てられるのか、すなわちラカンの無意識はそもそも存在するのか。

人は歩くとき、どのように足をうごかし、どの場所を踏み、歩くなど考えません。ただ「自然に」歩きます。たとえば「止まれ!その当たりに地雷が埋まっているぞ!」と言われると、人は立ち止まり、歩けなくなります。しかしそれでも歩かなければならないとき、地面をよく見て、不自然な場所がないか、それを避けて、足をそろりと運びます。通常、疑いもしない地面への不信感が生まれることで、ただ「自然に」とはほど遠い状態が生まれます。

このような状態は、神経症に似ています。通常、多くの人が「ただ自然に」行っていることが、「世界」への不信感から「自然に」行えなくなる。この食堂の食器はちゃんと洗えているのだろうか、誰かが影で私を笑っているのではないか、誰かが私を見張っているのではないか。

簡単にいえば、神経症とは「考えすぎ」のことです。通常、暗黙知(身体知)で行う「自然な」行為について、頭で考えすぎる、言語によって理解しようとしすぎる。そのような状態になるのはなんらかのきっかけで、世界への不信感が芽生えてしまう。あるいは神経質な性格、内向的で言語過多な性格によって考えすぎて、「世界」への不信感を広がる。

すなわちラカンいう「言語のように構造化された」無意識というのは、暗黙知(身体知)がフリーズした病んだ状態に現れる「静的な構造体」といえます。精神分析のいう無意識とは神経症な無意識としてのみ存在するものです。「健全な」身体では言語知は身体知と一体となり、動的に作動するために「静的な構造」を持ちません。

といいたいのですが、精神分析で言われるように、人はみな多かれ少なかれ神経症であるといえます。たとえば思春期や恋をしたときなど、人は「考えすぎて」自然なふるまいができなくなります。あるいは誰もが悩みをもっていますから、悩んだときにも、自然なふるまいができなくなります。

その意味で、「性関係は存在しない」というテーゼで、人間に「自然な」状態はないといったラカンは正しいといえます。しかししかしそれでもやはり言い過ぎであるとも思えます。自然な性関係はなくても、限りなく自然な歩行はあるのです。それは、無意識ではなく、訓練によって獲得した暗黙知によってなにも考えずに歩いている時です。人の行為のほとんどはこのように考えずに反射的に行われます。

さらにいえば、フロイト以来、精神分析がなぜ性関係にこだわるのか。それは性関係が訓練から離れているからです。性関係は社会的に抑圧され、安易に訓練することが許されません。だから暗黙知による性関係というものがありません。すなわち性関係は限りなく言語的であり、精神分析的なのです。

再度、環境-調和図式にもどると、以下のようになります。

A 強制・・・疎外により不快な状態
B 訓練・・・暗黙知によって限りなく自然な状態=(マルクスのいう)類的存在的な充足
C 管理・・・暗黙知+環境管理によって限りなく自然な状態=動物的な充足
D 感染・・・ラカン的無意識による神経症な状態=スノビズム的な充足


*1:アブラブログ http://aburax.blog80.fc2.com/