フーコー・コレクション〈6〉生政治・統治

pikarrr2008-10-02


以下はフーコー・コレクション〈6〉生政治・統治」(ISBN:4480089969)より抜粋*1



認識とは戦略関係である

認識がどのようなものかをほんとうに知ろうとしたら、哲学者の十八番であるような生活形態、生存形態、禁欲形態に近づいてもだめなのです。認識がどのようなものかをほんとうに知ろうと思うなら、その正体を知り、それを根源から、その製造からして把握しようとするなら、哲学者たちではなく、政治家たちに近づかなければならない。権力闘争の諸関係がどんなものかを理解するべきなのです。この権力闘争の関係においてのみ、諸事象が相互に、人間たちが相互に、憎み合い、闘い合い、互いを支配しようとし、互いの上に力の関係を及ぼそうとする、その仕方を通してのみ、認識がいったい何なのかを理解することができるのです。・・・つまりは、認識とはつねに、人間が身を置いているある戦略関係なのだということです。

P29-31 「真理と裁判形態」



真理と政治権力の一体性


前二千年紀の終わりから前千年紀の初めの東地中海のヨーロッパ社会では、政治権力はいつもある種のタイプの知の保持者でした。権力を保持するという事実によって、王と王を取り巻く者たちは、他の社会グループに伝えられない、あるいは伝えなくてならない知を所有していました。知と権力とは正確に対応する、連関し、重なり合うものだったのです。権力のない知はありえませんでした。

ギリシア社会の起源に、前五世紀のギリシアの時代の起源に、つまりわれわれの文明の起源に到来したのは、権力であると同時に知でもあったような政治権力の大いなる一体性の分解でした。・・・古典期ギリシアが出現するとき、この社会が出現するために消滅しなければならなかったのが、権力と知の一体性なのです。このときから、権力者は無知の人になります。

だから、権力が無知と無作為と忘却と蒙昧を担わされるのに対して、一方に神々の、あるいは精神の永遠の真理と通じ合う占師や哲学者がおり、他方に権力をもたないけれども、みずからのうちに記憶をもち、あるいはまた真理の証言をもたらすことができる民衆がいることになります。

西洋は以後、真理は政治権力には属さず、政治権力は盲目で、真の知とは、神々と接触するときや、物事を想起するとき、偉大な永遠の太陽を見つめるとき、あるいは起こったことに対して目を見開くときに、はじめてひとが所有するものだという神話に支配されるようになります。プラトンとともに西洋の大いなる神話が始まります。知と権力とは相入れないという神話です。知があれば、それは権力を諦めねばならない、と。知と学識が純粋な真理としてあるところには、政治権力はもはやあってはならないのです。

ニーチェが、・・・あらゆる知の背後、あらゆる認識の背後で問題になっているのは権力闘争なのだ、ということを示しながら、打ち壊し始めたのはこの神話なのです。政治権力は知を欠いているのでなく、権力は知とともに織り上げられているのです。

P61-63 「真理と裁判形態」




統治は事物を配置すること、主権は共通の善


統治とは・・・「ふさわしい目的に導くべき事物の配置」を持つのであり、その点においてまた、統治はきわめて明確に主権に対立するものであると、私は思われる。主権者は、良き主権者であるためには、つねに、ひとつの目的をみずから心がけねばならず、それはすなわち「共通の善と万人の救済」ということであるのです。

・・・たとえば、統治は、人が可能なかぎり多くの富を生み出し、人々に対して十分な、あるいはできるかぎり多くの生活の糧を与えることができるようにしなくてはならない。さらにまた、統治は人口が増加しうるようにしなければなりません。したがって、こうした幾つもの固有な目的こそ、統治がめざすものとなるのです。そして、こうした違った目的を達成するために、ひとは事物を配置することになる。この「配置する」という語が重要です。じっさい、主権にその目的である方への服従を達成することを可能にしていたのは、法それ自体であった。法と主権はしたがって絶対に一体となっていたのです。逆に、ここでは、人間たちに法律を強制するのではありません。事物を配置する、つまり、法律よりはむしろ戦術を使うこと、あるいは極端な場合には、法律を戦術として最大限に使用することが問題になるのです。いくつかの手段を用いて、これこれしかじかの目的がされるようにすることなのです。

P255-257 「統治性」




統治の技法は人口の固有の規則性の発見にある


十六世紀に定式化されたこの統治の技法が十七世紀に阻止されたことには、また別の理由もあると思われます。・・・主権の行使の問題が、理論的問題としてもまた政治的組織の原理としても首位の座を占めていたと言うことが、統治の技法を阻止する根本的な要因だったのです。主権が主たる問題であるかぎり、主権の諸制度こそが基本的制度であって、権力の行使が主権の行使と見なされるかぎり、統治の技法は、固有かつ自律的に発展することができなかったのです。・・・

・・・統治の技法の陥っていた閉鎖の打開は・・・十八世紀の人口拡大であり、この人口の拡大は通貨の過剰に結びつき、さらにはこの過剰がまた農業生産の増加にふたたび結びつく、歴史家におなじみの循環的プロセスにしたがって動きでした。・・・統治の技法の打開は人口問題の出現と結びついていたと言うことができます。

人口というパースペクティブ、人口に固有の現象が持つ現実は、家族モデルを決定的に遠ざけ、経済というこの概念を中心に違うものの上に移動させることを可能にするでしょう。・・・統計学が少しずつ発見し明らかにしていくのは、人口には固有の規則性がある、ということなのです。・・・人口はその集合状態に固有な効果をもつものであって、・・・家族という現象に還元することができない、ということなのです。統計学が教えるのはまた、人口は、その移動や行動様式や活動によって、固有の経済的な効果を持っているということです。

統治の知の成立は、広義の人口をめぐるあらゆるプロセスについての知、まさしく人々が「経済学」と呼ぶ知の成立と絶対に切り離しえない。・・・統治の技法から政治学への移行、主権の諸構造に支配された体制から統治=政府の諸技術に支配された体制への移行は、十八世紀に、人口をめぐって、したがって、政治経済学の誕生をめぐって行われるのです。

P261-268 「統治性」




権力とは合理性の形態


権力とは実態ではない。しかしならが、それはまた、その起源を探し求めなければならないような不可思議な属性というわけではない。権力とは個人間に存在するひとつの個的な関係タイプにほかならない。・・・権力の分別特徴は何かといえば、それはある特徴の人々が、程度の差はあれ他の人々の行動の一切 − といってところで徹底的、強制的というわけにはけっしていかないのであるが − を決定できることである。

ある権力形態に抵抗したり反抗したりする人々は、単に暴力を告発したり、ある制度を批判したりするだけでこと足りるわけではない。問題にしないればならないのは、目の前に存在する合理性の形態なのである。・・・問題は、いかに権力関係が合理化されてきたのか、ということなのである。

P355-357 「全体的なものと個的なもの−政治的理性批判に向けて」

*1:それぞれの題名はボクがつけました