なぜ国家はなくならないのか 耕作技術としての国家論2

pikarrr2008-11-05


世界の均衡としての国家


ネオリベラルの小さな政府論、経済主義者は国家は必要のないものと考える。そしてその先にマルクスがいる。なぜ国家はなくならないのか、の説明で説得力があるのは柄谷だろう。国家があり、世界市場があらわれたのではなく、その始めからグローバルな経済活動のために国家は生まれた。

この考えを補強するようにフーコーの国家の歴史分析がある。一つの転機は、1648年、欧州での宗教革命、国家間戦争の終結としてのウェストファリア条約である。このときカトリックプロテスタントの対立、帝国化へ闘争は終結し、「国家間の均衡」が生まれた。

もはや国家は君主による領土争いではなく、「競合空間」内の競争となる。競合空間では自らの国力を高めることがめざされるとともに、隣国と密接な経済的関係があり、隣国の変化は自国にも多大な影響をあたえる。だから他国とのバランスが重視される。それは連合関係によって保たれるのだ。

欧州に生まれたこの均衡が一つの「ヨーロッパ」を生み出した。もはや国家として自立しなければ、このバランスに飲み込まれる。もはや国家をやめることはできない。この静的なバランスにおいてある国家が国家であることをやめれば隣国が進入してくる。これは侵略であるとともに、世界のバランスを保とうとする治安行為である。

このように世界は「国家間バランスの差異の体系」に覆われることになる。その先にあるのが、植民地主義であり、帝国主義である。だからマルクスがいうように世界共和国は世界同時に一気につくられなければならないのだ。だから決して国家はなくならない。




国富と規格化


この国家間の均衡を成り立たせる共通語が「経済」である。均衡は各国の国力のバランスによって保たれる。国力の小さな国は他国と連合し、大国とバランスをとる。すなわち近代の経済の全面化はその始めから国富としてある。古典自由主義アダム・スミスが書いたのが国富論であるのはこのためである。

このために国家内は富国をめざした合理的な内政が行われる。社会の規格化である。人、制度、流通など国家内の全面的な規格化。さまざまな地域的、民族的な差異は国家による規格化に洗われていく。

しかしこれは国家が人を管理するためではなく、経済活動を活性化し、国力を向上するためである。だから規格化が進めば、内政における国家権力は治安を目的とした警察としてのみ残ることになる。




耕作技術としての国家


国家は君主ではなく国家運営技術による専門家、「政治家」により運営されることになる。この実践的な国家運営として「国家理性」がある。これは古典物理学の発見が社会に衝撃をあたえことと同時期に同様な変革として受けとめられたのだ。

グローバリズムが学校教育により支えられているというレベルで国家は自由経済を支えている。国家は自由経済が活発に行われるためにたえず大地を耕している。小さな政府とは手入れが楽になったというだけで手入れなく作物がすくすく育つのとはまったく異なるのだ。保守主義とはたえず大地を耕しつづけることを意味する。




議論


(wisteria-1)>ぴかぁ〜さん、ヒトはなぜ国家を超える統治主体を持ち得ないのでしょうか?国家単位の統治がヒトのつくる統治制度の限界なのか、国家自体が国家を超える統治主体を否定する必然性を内包しているのでしょうか?民族/宗教/言語/過去の歴史等々、コミューンや柄谷の世界共和国等のイデアが次々と蜃気楼のようにあらわれ、そして消えていく。「神の見えざる手」が、国単位ではなく、全世界単位で語られるためには、現在にはないが将来にはありえるものとして、何が求められるのでしょうか?


国家をひとからげにできないわけですが、近代国家とは、「耕作」技術としての国家です。すなわち経済=資本主義を支えるための機械です。資本主義が継続される限り国家はなくならないと思います。作物がすくすく育つためには、誰かが畑を耕さないといけないのです。民族でもない、宗教でもない、君主でもない、それが国家(理性)というシステムです。

マルクスは資本主義が物神的な貨幣によって支えられていることから、すぐに世界恐慌がおこり、資本主義が崩壊すると考えました。世界の崩壊のあとに、一気に世界共和国をつくられる。確かに恐慌はいくどとなく起こりますが、資本主義は崩壊しない。ネグリの帝国も国家間のバランスによって成立するのです。



(wisteria-1)>実際の企業活動や資本家が「耕す」領域(市場)は、とっくに国家という制約を超えている。世界同時金融危機の波も国家の領域を超えている。資本の増殖主体の総体が求める利益共同体も、国家の枠組みとは違う次元のものを求めている。非人格的カリスマとしての国家の歴史的役割は、その限界を超えているのに関わらず、国家資本主義の元締めが、世界恐慌というピンチを経るごとに、より強固なものになっていく。「制度神」としての国家が資本主義を支えるという構造が崩れない要因は、資本主義制度の側に内包されている、ということでしょうか?


国家は必ず「世界的な国家網」(国家間バランスの差異の体系)として考えないと行けない。国家間に隙間はない。そのように考えると、実際の企業活動や市場は国家網を超えることはないし、できない。国家網を越えたところでは貨幣は生きられない。

世界同時金融危機が国家管理を超えているのはしかたがない。国家は市場という生き物が自由にすくすく育つように管理するが、自由はかならずどこかで、雪崩(カスケード)を起こす。これは資本主義の宿命です。

資本の増殖は国家網を越えない限りで問題がない。国家は他国をけ落とすものではなく、国家網は一つの均衡であり、他国の成功は自らの成功への展開と考える。国家は機械であって、カリスマ性などない。カリスマ性を求めるのはネーションでしょう。マルクスの予測とは反対に、恐慌によって国家網が強固になるのは、まさに恐慌も資本主義の一部であるということでしょうか。



(wisteria-1)>情報、賃金、等々の「非対称性」こそが、いまだに資本が耕す市場を再生産し続けている。あるいは非対称性を再生産し続けている主体が資本制ではないでしょうか?


そうですね。資本主義の「非対称性」という原動力は貨幣交換でしょう。資本主義以前の贈与交換の共同体では「儲ける」ということは存在しない。かりに偶然、誰かが儲けてしまえば、回りの人々のその儲けを分配する。

しかし貨幣交換はマルクスがいうように共同体の間に始まる。海の幸を山で売り、山の幸を海でうる。商人はその差(非対称性)に利益を生み出す。だから商人は卑しい人人々として嫌われていました。共同体の分配の輪から離れて利益を独占する人々。

これは、より具体的にいえば都市化でしょう。共同体では知った者が集まるが、都市という人口の密集では知らない人が集まる。そして知らない人々の間にあるのは贈与交換ではなく貨幣交換です。資本主義では誰もがある意味、「商人」になる。労働者は労働力を売って、儲けをえようとする。いかに儲けを生み出すか、という「非対称性」をもつ。儲けようとさせられる、それが資本主義のアーキテクチャです。



(wisteria-1)>資本にとって、労働力、商品、市場領域などは二義的、参議的なものであることは自明でしょう。資本が、先の「非対称性」を見誤るつど、そのつけは、労働の提供者側が負う。もちろん、労働力の提供主体側にも、この「非対称性」を見誤る責任はあるものの、この構造は、「非対称性」により安堵され、それは、そのつど資本側により再生産されていく。それが資本制を支えるコメである「商品」の本質のすべてでしょう。


先に言ったように商人の儲け、これは貨幣によって可能になります。資本主義システムではこの非対称性が「分業」によって合理的に増幅される。それが剰余価値でしょう。

しかしここで単純にブルジョア/プロレタリアの対立で考えてはいけないと思います。資本主義/自由主義の本質は、みなが螺旋的に上昇し、豊かになる。国家と国家の関係、国家とネーションの関係、資本主義は本質的に全体的に上昇させる生成の力があるということです。ハイエク的に自制的秩序といってもいいですが。

これは楽観主義のようですが、ここに様々な問題がある。国際的な地域格差の問題、国家による暴力、戦争、環境問題。それでも現に資本主義というアーキテクチャは物質的な豊かさを実現してきていることも確かです。
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