なぜ「ブランド」を求めるのか コンベンションと統治技術 その2

pikarrr2008-11-30


「ブランド」というコンベンショナルな信頼関係


資本主義は経済学的な理念として完全競争をめざすことが求められるが、実際に企業が利益をえるためにはいかに完全競争を回避するか、いかに他社と差別化するかが重要になる。そのためには様々な方法が駆使される。技術、あるいはビジネスモデルを新規開発することに力を入れるのもそのためだろう。新たな有効性を開発すれば、他社がそこに追いつくまでの間、市場を独占することができる。

完全競争を回避するもっとも有効な方法は、買い手とコンベンショナルな継続した信頼関係を結ぶことである。それによってその買い手を独占できるからだ。それが「ブランド」戦略である。ここでいう「ブランド」戦略は俗に言う消費者にむけた商品ブランドのPRももちろんであるが、たとえば企業間の様々な取引も、一度限りの貨幣交換ではなく、継続したコンベンショナルな信頼関係へと継続することである。

ブランド名を批判する人たちは、ブランド名は消費者に本当は存在しない違いを認識させると主張する。多くの場合、一般品はブランド品とほとんど区別がつかない。ブランド名を批判する人たちは、消費者のブランド品への支払許容額が大きいのは、広告によって育成された非合理性の一形態であると主張する。・・・この議論から、ブランド名は経済にとってよくないものであると結論づけた。

より最近では、消費者に対して購入する財が高品質であることを保証する有益な方法として、経済学者はブランド名を支持してきた。これについて関連する議論が二つある。第1に、購入前には容易に品質を判断できないときに、ブランド名は消費者に品質についての情報を提供する。第2に、企業はブランド名の評判を維持することに金銭的な利害関係をもつので、ブランド名は企業に高品質を維持するインセンティブを与える。P511-512


「マンキュー経済学 ミクロ編」ISBN:4492313524) 第17章 独占的競争

経済学では、ブランド戦略は品質がよい商品をより安定して購入するための買い手にとって合理的な方法であるとして説明される。しかしこれでもブランドのコンベンショナルな関係を十分説明したとは言い難い。コンベンションな関係には、趣向、信頼、継続などの集団的な非合理性をもつ。

だからといって経済学的にブランド戦略は間違いであるということには意味はないコンベンションは決して排除できない社会基盤であるからだ。人々は合理的であるか、非合理的であるかとは関係なく、コンベンショナルな関係性にはめ込まれ、ただ毎日行うこと、習慣を反復する。なぜそのブランド品を買うのかと問われれば、その場では合理的な説明をするかもしれないが、実際は昨日も買ったから今日もまたそのブランド品を買うだろう。




「物象化されたコンベンション」


現代の貨幣交換に介入する贈与性を分析したものに、ボードリヤール「象徴交換と死」などがある。しかしこれはあまりに構造主義的である。すなわち死を強調する否定神学である。現代の消費のもつ欲望の過剰性をバタイユのいう消尽、フロイト死の欲動、すなわち純粋贈与へとつなげる。たしかに消費の過剰はこのような欲望論で語ることができるが、贈与交換はより日常の基盤、すなわちコンベンション(黙契)として当たり前にある。

マルクスは貨幣交換の非対称性を指摘した。古典経済学では貨幣−商品等価交換の場合、負債は一瞬で解消される。しかしマルクスが指摘したのは貨幣をもつ特別な位置である。貨幣は他の商品とは違い、なんとでも交換できるという特別な位置をしめている。

ここに「買ってあげる」という貨幣交換の贈与性がうまれる。消費者はいつも生産者に対して優位な位置をしめて「買ってあげる」のだ。広告は懸命に消費者へ媚びへつらう。そしてただ商品の優秀さを説明するよりも、「ブランド」を売り込む。そして消費の優越は過剰な消費を生む。

これはボードリヤールのいうような「死への欲動」ではなく、擬似的なコンベンショナルな信頼関係の継続をうむ。ある生産企業=「ブランド」を中心とする消費者たちのコンベンションであり、そのようなコンベンションへ帰属するためのチケットである。マルクスは、資本主義社会では人の関係が商品の関係にかわることを物象化と呼んだが、「物象化されたコンベンション」を形成する。




労働者と企業のコンベンション


労働についても同様な関係を見ることができる。労働者は企業に労働時間をうる。ここでは労働者は「買ってもらう」のであり、企業は労働時間を「買ってあげる」のである。だから労働市場は自由競争でなく、学歴、新卒中途、男女など、「ブランド」の格差関係にある。これは単に企業側の論理によるブルジョアジー/プロレタリアの対立によるものではなく、社会的な秩序(基準)としてある。労働者と企業は「物象化されたコンベンション」を形成している。

あるいは就職後も労働者が懸命に「自分の」企業のために働くのは、企業への労働時間を「買ってもらっている」という贈与的な負債であり、その継続からくる信頼関係としてのコンベンションがあるからだ。「企業(ブランド)文化」と言われるのはまさに「物象化されたコンベンション」だろう。
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