なぜネットは自由主義に充足するのか コンベンションと統治技術 その3

pikarrr2008-12-02


ネット・コンベンション


近代以降の社会統治は、法権力、生権力(市場)を規律・訓練というコンベンショナルな通路を通して行使された。すなわち規範、貨幣交換を通して社会秩序は形成されてきた。

いま、それに対して新たなコンベンションが生まれている。情報網の発達による直接的なコミュニケーションの復活である。そしてこのような情報網の発達を爆発させたのがインターネットの登場である。オタク・ハッカーなどの文化的なコミュニティの形成として現れた。規範でも、貨幣交換でもなく、コミュニケーション(情報交換)によって自律的で創造な新たなコンベンション網による文化圏を形成している。




情報化による統治への影響


情報の発達はいままでの統治のあり方にも大きな影響を与えている。発信者の匿名性を広げ、法権力が行使されにくくしている。また情報の氾濫は法権力を伝達する規範のコンベンショナルな通路を混乱させる。

さらにこのようなコンベンショナルなコミュニティへの自覚は、社会への抗議活動として現れる。気に入らなければ炎上し、情報攻撃する。これはネット上だけの傾向ではなく、実際の政治へネット世論として影響を与え始めている。

同様に情報化は大企業を中心とした貨幣交換のコンベンショナルな通路を分断する。特にネット上では貨幣交換ではなく、贈与交換が中心である。人々が無償で情報を提供しあうことでコンベンショナルなコミュニティを形成している。さらにはネットの嫌儲と言われるように貨幣等価交換を排除する傾向がある。これはまさに商人を蔑視したかつての村社会そのものである。




ネット・コンベンションの限界


しかしこれらをいまの資本主義的な統治との対立として見ることは単純すぎるだろう。情報化による統治には様々な限界がある。もっとも大きな特徴が交換するのは情報のみであるということだ。だからネット上の贈与交換によって有用な情報が手に入っても、貨幣交換社会へ帰属し労働することからは逃れられない。また政治的な発言としての炎上は一過性になりやすく、社会を変革するような継続した運動にはなりにくい。

レッシグはネット上のアーキテクチャな管理権力への注意を呼びかけている。レッシグアーキテクチャ管理を問題視するのは、ネット環境が人為的につくられるためだ。環境を自在に設計し、人々を環境に埋め込んでいく。Googleのような巨大なシステム設計による管理社会が危惧されている。

しかしレッシグアーキテクチャ論はあまりに環境(アーキテクチャ)が重視しすぎている。環境はたえず環境とそれに順応する身体との関係である。そしてそれがコンベンションである。そもそもアーキテクチャからネットの爆発的普及を誰が予想できただろうか。ケータイのこのような普及の仕方を誰が予想しえただろう。

従来のコンベンションでは、環境を改良する労力から、身体が環境へあわせる、すなわち規律訓練が行われてきたが、情報社会では環境の改良が容易になることで環境側が身体へあわせる方が進んでいる。最近ならばWeb2.0という考え方である。コンベンションをいかに発展させる環境(アーキテクチャ)をつくるか。




貨幣交換コンベンションからネットコンベンションへ


このような環境重視のコンベンションは新たな現象だろうか。資本主義の「貨幣交換・コンベンション」は商品を買うこと、労働力を売ることにはたえず、贈与性が隠されている。特にマーケティング戦略によって消費者の身体をコンベンションへ組み込もうと懸命である。

たとえばウェーバーによって資本主義社会において豊かで自由になる中で目的合理性によって「意味の消失」が起こる問題が指摘された。しかし正確には問題は意味が消失したではなく、意味を過剰に求めることにある。意味を過剰に求めることがそこに「ないことである意味」を生み出す。すなわち合理性が否定神学的な消失点を生み出す。

ここに資本主義の終わりない消費の過剰が継続される。ネット・コンベンションで行われていることも、この欲望をそのまま継承している。貨幣交換の代わりにコミュニケーション(情報・交換)によって贈与交換が行われているだけである。




ネットは平等よりも自由をめざす


いままで資本主義的な統治方法、法権力、生権力(市場)が規律・訓練というコンベンショナルな通路を通して行使される。すなわち規範、貨幣交換を通して社会秩序を維持することに対して、ネットは対立するよりも加速させているとように思う。

ここで経済格差の問題が現れる。下流は努力しているが上がれないのか。経済という価値にこだわらず充足をめざしているのか。すなわち格差問題が単に経済的な問題には還元できない。人々の貨幣交換=労働・消費への興味の低下を無視できない。

それでも実際の経済はいまも貨幣交換=市場が支えている。ネットコンベンションは実社会の労働へ参加せずには自立しえない。そしてネットコンベンションに対して自由主義にかわる新たに統治方法が必要ということはない。誹謗中傷、著作権などの問題はあるが、ネットコンベンションは放牧される。

ネットが普及し始めた当初は、ネットコンベンションは、直接民主主義のような新たな民主制や、世界共和国のような新たな共和制を生み出す可能性が期待された。しかし現状をみると、ネットは平等(主権)よりも自由(経済)が重視されている。

もしあらたな統治方法を求めるとすれば資源環境問題だろう。無限につくりだされる情報より、限りある資源環境の分配において、新たな統治が求められる。
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