なぜ自由と平等は病なのか コンベンションと統治技術 その4

pikarrr2008-12-03


コンベンション(慣習)から言語世界へ


近代化とはなにか。歴史学の大きな謎の一つであるが、教科書的には人文主義という人間への自覚に始まると言われる。これを説明するのに社会の都市化がある。都市は様々なコンベンションが交差する地点である。そこに村社会のコンベンション(慣習)への埋め込まれからの「気付き」だろう。

身体が埋め込まれた環境から言語世界への移住である。身体に刻まれたコンベンション(慣習)は簡単にかわらない。それに対して言葉はいくらでも好きに語れる。身体は嘘をつけないが言葉は簡単に嘘をける。都市という流動性の高い環境では言葉のもつ操作の容易さが重要になる。

近代化とは都市化であり、そしてなによりも言葉の時代である。主権者はいままで以上に法を語り、商品という言語記号が飛びかう。土地、労働は商品(言語)化される。

そしてデカルトのコギトは都市に生まれる。デカルトの懐疑とは言葉の世界ではじめて可能になる。言葉は嘘をいう。だから言葉を疑う。最後に残るのが「疑う私(コギト)」である。すぐに嘘をつき、操作される言葉世界においての基点である。その後、コギトを中心に言語世界は設計されることになる。




自由・平等という「気づき」


近代において人は地域的なコンベンションの「囚われ」から救い出された。その力が自由と平等である。これが一般的な歴史学であるが、しかしまた逆にも考えられるだろう。地域的なコンベンションから人々をひっぱがすために自由と平等が語られた。

コンベンションは贈与交換的な質的な公平感を基本にする。外から見て、上下、格差の関係であっても、当事者がその環境に充足していればそれは公平は状態である。しかしこれもまた正しい表現ではない。充足は、当事者という主体の自立でも、二者間の関係でもなく、社会および自然環境への身体の埋め込みという慣習的なものである。そこでは自らの「気づき」が不十分であり、懐疑が生まれにくい。

だから「公平感」と呼ぶのは正しくない。それは言葉であり、主体的であるからだ。それに対して、自由と平等は目覚めであり、「気付き」であり、言葉である。主観的な公平感から客観的な自由と平等の前に「気付き」という言語世界へ移動が必要になる。




流動性を生きるコギト


様々なコンベンションが集う都市には新たな統治が必要になるが、コンベンション群のコミュニケーションは、言語世界においてコギトという主体たちを公平に配置するか、ということだろう。ホッブズにしろ近代の社会設計は、主体的な理性を基本として、自由というイデオロギー(言葉設計)によって統治するか、平等というイデオロギー(言葉設計)によって統治するのか、である。

しかし人々の生活はコンベンションとして形成されている。親族であり、地域コミュニティであり、職業集団であり、そこにはコンベンション(慣習)がある。そして言葉と慣習(身体)の時間差が問題になる。コンベンションを操作するために規律訓練という時間をかけた環境設計とそれに適応する人材教育が必要である。その間にも法は容易に変更されていき、さらには市場(商品交換)の変化は急激である。そこに多くの歪みが生じるだろう。、

そこで必要であるが治安としての暴力である。しかしより重要であるのがコギトだろう。言葉の世界に自らの担保しておくこと。都市化し社会環境の流動性が増すなかで、基点としてのコギトをおくこと。理性的な主体であること。

そしてコギトは現代においてこそ有用である。近代化が都市化であり、言葉の時代であるとすれば、より流動性が増したグローバルな現代はさらには言葉に溢れる。もはや理性的な主体ではありえない。デカルトから300年後、世界都市ウィーンでフロイトがコギトを(神経)病と呼んだ。現代は、言葉過剰、精神分析的主体の時代である。逆にいえば、それでもコギトは求められる。




自由と平等という病


自由の重視は資本主義にむかう。資本主義では合理性の追求(言語による世界の構築)はミクロレベルで働く。たとえばウェーバーよって自由であるはずが目的合理性によって生きる「意味の消失」が起こる問題が指摘された。しかし正確には意味が消失しのたではない。言語世界へ移住することそのものがそこに当然言語意味があるように見せるが、そのはじめから意味などないのである。そして意味を過剰に求めることがそこに「ないことである意味」否定神学的な消失点を生み出す。ここに資本主義の終わりない消費の過剰が継続される。

たとえば平等の過剰は全体主義国家社会主義にむかう。全体主義の全体的な合理性の追求(言語による世界の構築)は極点において、ユダヤ人(迫害)を生み出した。このような否定神学的な消失点がなければ、合理的な言葉の世界は成り立たない。




独裁と独占


しかし自由・平等の過剰の本質は言語の過剰だけではない。いかに言語設計をめざそうがコンベンションは排除されないということだ。自由・平等という理想をめざすほどにコンベンションに捕らえられる。国家社会主義において問題は権力の独裁化にあった。いかに平等な社会設計をめざそうが、権力の集中とともに強者のコンベンション、贈与の集中=独裁を生み出した。

あるいは経済的な自由放任とい競争社会は、自由主義的には自由で平等な競争ということになるが、富をもつ者が強者であり、強者のコンベンション、贈与の集中=独占を生み出す。そして弱者のコンベンションは物象化されることで自由の名のもとに孤立化する。
*1