なぜコンベンションを記述することは困難なのか

pikarrr2008-12-26

コンベンション(社会の暗黙の協約)はいかに可能か。


コンベンション(社会の暗黙の協約)はいかに可能か。その説明には超越論的なものと経験論的なものがあるだろう。

超越論的(合理論)・・・共時的

構造主義レヴィ=ストロースラカン
・贈与論(モース)
・物象化(マルクス、広松)
・コンテクスト論(ベイトソン
言語ゲームウィトゲンシュタイン
・生政治(フーコー
エスノメソドロジー
・自己組織化(創発
アフォーダンスオートポイエーシス

経験論的・・・通時的



超越論的な主体


超越論(合理論)では、世界を共時的に圧縮し合理的な平面がえる。そして不合理性は欠落(穴)として一点に集約される。それが超越論的な固定点(現実界)として語られる。特に人の認識の特性である言語体系は本質的に共時的であり、人は超越論(合理論)に世界をとらえる特性を備えている。たとえば人が宗教とは関係なく世界に神性を感じること(フェティシズム)に顕著である。

たとえば構造主義はコンベンションというドグマティックものを、言語(シニフィアン)法則によって合理的に説明したことが画期的であるが、その結果、非合理なものが一点にしわ寄せとして表れる否定神学である。

しかしこのような否定神学は説明上の矛盾であるというわけではない。このような説明そのものが人の認識の一形態と考えることができる。すなわちラカンの主体論が否定神学的ということとともに、人は神経症において否定神学的な主体に陥るということだ。

だから超越論はコンベンションを言語で説明する限界であるとともに、現にコンベンションにおいて働いている構造であるともいえる。しかし人がまた言語によってしか考えることができないことで超越論に還元しがちであることも否めない。実際にコンベンションは言語によってのみ作動しているわけではないからだ。




経験論と超越論の境界


物象化論において秩序は、精神的な無意識ではなく、社会に物質化されている。物質環境とは社会的なものであって、人は社会化された環境に依存することでコンベンションは可能になる。そして環境は社会的である故に人は物へのフェティシズムをもつ。だから経験論的であり、超越論的であるといえる。

ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」では、日常において言語コミュニケーションが成立し、社会活動も行われているという経験論的立場から分析される。コンベンションは訓練によって習得した「規則に従う」という行為によって成立している。

経験論は世界の通時的な実在への素朴な感性と考えられているが、実は経験論的に世界を認識することはとても困難である。ここでいかに行っているかと、規則を求めてしまうと、超越論へ向かってしまうだろう。

ウィトゲンシュタインが最後期の「確実性の問題」(ISBN:4469110191)において、言語ゲームの原理の分析へ向かうときに問うたことは、「ここに手があることを私は知っている」というような命題である。ここではすでに超越論的な領域に近接している。




経験論の記述限界


経験論を記述する有用な一つの方法は数量化である。たとえば科学技術は帰納法を用いる。実験による数量化がより客観的に体験を記述し、伝達され、社会的に共有され、反証される。このような社会性の共有化が超越論(合理論)的なドグマを打開する。

このためにエスノメソドロジーアフォーダンスなど社会学は数量化によって経験を記述するよう試みる。しかしこのような数量化はあくまでも反復(反証)可能なかなり限られた領域に限られる。すなわち機械論的なものとして記述され、コンベンションの変化への柔軟性までとらえることは難しい。

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