なぜ奴隷制は効率的といえないのか 

pikarrr2009-01-07

「人権という迷信」 


やはり「池田信夫blog」http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuoは面白いですね。経済的リバタリアンここにあり、という感じでしょうか。これらは当然、暴論であるでしょうが、なぜ暴論であるのかを考えることが重要なのでしょう。

奴隷制の効率性」 http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/e6bc47185c94348d9077ef0ccbec23d3


・もし人的資本の売買が認められていれば、労働者は自分を企業に売り切り、企業は経営が苦しくなったら彼を解雇する必要はなく、他の企業に転売すればよい。人的資本を物的資本と同じように市場で取引できる奴隷制のほうが、近代の雇用契約より効率的だというのが、フォーゲルの有名な研究である(彼はノーベル賞を受賞した)。


ただ近代社会には、すべての個人はひとしく「譲渡不可能な基本的人権をもっているという(根拠のない)信念があるので、労働者を売買することは許されない。企業という組織は、こうした非対称な制度のもとで労働者を実質的に奴隷化するしくみだ。資本家は労働者の人的資本を所有できないが、物的資本は所有できるので、雇用契約によって資本と労働を結合し、労働者を資本から切り離す権利によって間接的にコントロールする、というのがHartの契約理論のエッセンスである。

「人権という迷信」 http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/332632b1440004c7115da458ca02b33c


・生まれた瞬間に、すべての人に同じ権利を政府が賦与すべきだという根拠はどこにあるのだろうか。こうした自然権の概念の欠陥を最初に指摘したのは、エドマンド・バークである。彼はフランス革命の掲げた人権(human rights)の絶対化を批判してこう書く:

私は、各個人が国家の運営において持つべき権限、権威、指揮などを文明社会内の人間の本源的直接的な権利に数えることを拒否する。私の考察対象は文明社会の人間であって、これは慣習(convention)によって決定さるべき事柄である。[・・・]統治機関は元来、それからは全く独立して、格段に明晰で抽象的な完成の姿で存在するごとき自然権のために形成されるものでは決してない。(『フランス革命についての省察asin:462204918X上、p.110〜1)


著作権にしても労働基本権にしても、本質的には定型的な契約にすぎず、絶対不可侵の自然権ではない。それは法律として絶対化されれば国家によって強制されるが、本源的にはバークもいうように慣習によって形成されるものだから、実態にあっていなければ変更するのが当然だ。規制強化や権利のインフレによる官製不況を逆転させるには、まず人権という迷信から覚めることが必要だろう。




法と慣習(convention)の相補関係


人権が迷信であるように、慣習(convention)にしろ、すべての社会秩序は迷信に支えられている、ということはできるでしょう。しかしそこまで相対主義にたっては話は終わってしまいます。

先の言説の問題の一つは人権か、慣習(convention)かと選択項されていることです。人権は法、契約であり、それとともに社会秩序はいまも慣習(convention)によって支えられています。法と慣習(convention)は選択項でなく、相互補完的な関係にあります。

これらの働きの違いは、法が論理的であるなら、慣習は実働的、さらには法か対象が「誰であるかに関係なく」働くとすれば、慣習は対象が「誰であるかに関係して」働きます。だから法が広範囲に一律に働くとすれば、慣習はその人が帰属する限られた規模のコミュニティに働きます。

近代化の特徴とは人口増加、流動化、都市化、価値多様化です。近代において、慣習から法が明確に分離され、社会的に重視されてきたのは、先の法の「誰であるかに関係なく」特性によるものです。慣習の「誰であるかに関係して」働くのでは、近代社会における公平性を保つことが困難です。現代が訴訟社会へむかうのはこのような都市化の傾向からくる。

だからといって、近代において慣習(convention)が消失したわけではありません。社会の実働的な面の多くでは、人々は相手が「誰であるかに関係して」社会関係を構築し生活しています。日常生活で親や、友達などいちいちこれは法律上正しいのか、気にしてつきあっていません。法は「誰であるかに関係なく」=誰にでも行使される必要があり、日常生活には大ざっぱなものでしかありません。




基本的人権と貨幣交換の相補関係


近代において基本的人権が重視されるのは、まさに「誰であるかに関係なく」持ち得る権利ということです。この特性が貨幣交換と同様であるのは偶然ではありません。自由主義経済は「誰であるかに関係なく」自由に貨幣交換を行うことで流動性を高め、発展しました。ここには基本的人権も貢献しているのです。言ってしまえば、基本的人権さえ守りさえすれば「誰であるかに関係なく」自由ということです。これらの近代以降の社会秩序の特性はフーコーの生政治(生かす政治)に繋がるでしょう。

それに対して、慣習(convention)はむしろ行きすぎた自由を抑止する方向に働きます。お金のためなら相手が誰であるかという社会的な関係は無視してよいのか、という保守的な傾向をもちます。そして長期的な信頼関係に根ざした助けあいの贈与交換関係を重視します。

しかしこれらの貨幣交換と贈与交換も選択項ではなく、相互補完的に社会経済的な秩序を支えています。貨幣交換は社会的な信頼関係を排除することで経済活動を活発化し、またその中で生まれた弊害を贈与関係(助けあい)が補う。たとえば親子、友達など身近な者同士は貨幣交換をこえた信頼関係で助け合う。あるいは税金もまた貧しい者を助けるという贈与関係の特性を持ちます。

たとえば柄谷は、社会秩序を資本=国家=ネーションという三項の協約というとき、貨幣交換は資本に、法は国家に関係し、そして慣習(convention)はネーションに関係するでしょう。




慣習(convention)は経済的リバタリアンとっての躓きの石


このように考えると、池田がいう「人的資本の売買」(部分奴隷制)等の人権に関する法は、慣習によって変更される」というよりも、むしろ慣習(convention)側から抵抗にあう可能性が高いでしょう。

人的資本の売買は、自由主義を推し進めた経済的リバタリアンの立場にあり、いまの労働時間の売買以上に「誰であるかに関係なく」働き、保守的な慣習と対立する可能性が高いでしょう。先に池田があげているバーグの『フランス革命についての省察』は保守主義のバイブルと言われています。先の例は、フランス革命の時代に基本的な人権は革新すぎた故に否定したのであって、池田の「実態にあっていなければ変更する」という改革的な言説とは反対の意味を持ちます。

たとえばかつての封建社会などの階級社会で、下層の人的資本が上層によって拘束されていた場合にも、単に下層は物として扱われわけではありません。下層は階級社会という慣習(convention)に埋め込まれることで、暴力的な拘束ではなく、再配分という擬似的な贈与交換による信頼関係によって支えられていました。

仮に、「人的資本を物的資本と同じように市場で取引できる奴隷制のほうが、近代の雇用契約より効率的だ」という経済学的(貨幣交換)な算出が行われても、そこにはまさに慣習(convention)からの抵抗が無視されています。慣習(convention)からの抵抗、すなわち人的資本の売買(部分奴隷制)によって生まれる社会的な軋轢を考慮した場合にも効率が向上するかは疑わしいでしょう。

経済的リバタリアンにおって、慣習(convention)こそが躓きの石であり、逆にさらに自由主義化を進める場合には慣習(convention)との協調をいかに進めるかが重要になります。基本的人権は近代以降の様々な歴史を経過した協調の結果、すなわち近代的な保守的な慣習(convention)といえます。


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