慣習(コンベンション)は権力関係の中で変化する

pikarrr2009-01-08

慣習(コンベンション)は現実(リアリティ)を支える


慣習(コンベンション)は人の「リアリティ」に関係します。社会的に獲得する疑いえない現実(リアリティ)を慣習(コンベンション)は支えています。

そして保守主義は慣習(コンベンション)を重視する姿勢です。バークの時代(フランス革命)にはまだ「人権」あらたな権利でありコンベンショナルなリアリティを勝ちえておらず、保守主義によって反論されたのです。しかし現代では「人権」は疑いえないコンベンショナルな現実(リアリティ)、すなわち「信念」となっています。だから保守主義によって守られます。

いかにあらたな思想を「信念」として疑いえないものとするか。それは単に個人を洗脳するということではなく、規律訓練によって達成されます。規律訓練は思想を社会環境として具現化し、その環境に身体をなれさせ埋め込むことです。ただこれは個人的な訓練ではなく、他者との関係としての集団が埋め込まれていく反復的な時間経過が必要です。

だから単に共時的なある状況における算出において効率的であるというだけでは、慣習(コンベンション)にならないだけでなく、むしろ慣習(コンベンション)からの抵抗にあいます。

慣習(コンベンション)のポイントは、なぜそれが正しいのかとは関係がないことです。これをより具体的に原理として示したのが構造主義(の象徴界)です。慣習(コンベンション)は気がつくとその社会環境に埋め込まれており、疑いえない現実(リアリティ)としてあります。




法権力、規律訓練権力、生権力


慣習(コンベンション)は基本的に共同体の原理であり、共同体の集まりである都市、国家を慣習(コンベンション)のみで説明することはできないでしょう。国家を統治するには、慣習(コンベンション)を越えた統治権力が必要になります。

フーコー現代社会の秩序を支える権力として、法権力、規律訓練権力、生権力を示しました。法権力は主権者の統治に関わる権力です。主権者は暴力の強制によって社会を統治するのではなく、主権者が主権者として正当な権利を有することをもとに様々な規則を法として取り決め施行します。現代の主権者は国民ですが、実働的に法を施行するのは政府です。

生権力は18世紀以降に主に資本主義経済に関係して表れました。国民全体をマクロ統計的に処理することで、経済活動が活性化するように計画され、行使されます。たとえば街の区画整理や衛生管理から経済活動に関する政策や法整備などとして表れます。

法権力、生権力のマクロな権力に対して、規律訓練権力はミクロレベルで働きます。先に述べたように規律訓練権力は思想を社会環境として具現化し、その環境に身体をなれさせ埋め込むようにマクロレベルで働きます。すなわち規律訓練権力は法権力、生権力を慣習(コンベンション)として、疑いえない現実(リアリティ)として行使することが目指されます。




慣習(コンベンション)は権力関係の中で変化する


たとえば現代の規律訓練権力の代表が学校です。学校では、国家の方針、法に基づいて、それを強制的に訓練するのではなく、様々な教育課程で自然と身につくように訓練します。言わば学校は整流装置であり、学校を卒業することで、現代社会に役立つ人物として成長します。

法権力、規律訓練権力、生権力は相補的に働きますが、またそれぞれはそもそもの目的が異なり、対立関係にもあります。法権力や生権力の行使は強制力をもち、誰かが有利で誰かに不利に働きます。それまでの規律訓練権力によって形成された慣習(コンベンション)と対立することが多々あります。

たとえばいまの学校教育の一つの問題としては、学校で教育される慣習(コンベンション)が流動性の早い社会の変化について行けず、封建的、強制的なものとして行使されることがあります。現代の社会においては、他者と繋がりに患わせずに、個人の価値観を重視する。「消極的な自由」を重視することが、一つの慣習(コンベンション)となっていますが、学校のプログラムはそれについて行けていません。慣習(コンベンション)は権力関係の中で変化していきます。




非正規雇のというライフスタイル


正規雇用派遣社員はまず生権力として行使されました。小泉政権のもと、ネオリベラルな政策として雇用を自由化することで、流動化が進み、より活発な経済活動が行われることが目指されました。

もし非正規雇という安い労働力がなければ、日本の生産は中国などの賃金の安い地域へより多く移転して、日本内の雇用状況はもっと悪いものになっていたかもしれません。一時期の好景気は非正規雇の安い労働力が支えたのは確かです。

しかしその収益は企業に蓄積され労働者には還元されませんでした。また日本の正社員の既得権益を守るという企業の封建的な体質がかわらないことで、非正規雇が収益の調整弁として働かされました。このようにして格差が広がったといわれます。自由化そのものが悪いのか、自由化が不十分だから悪いのか、様々に議論されるとことです。

さらに景気が良いときには、正社員になれずに非正規雇者になるのではなく、非正規雇は新たな労働形態、そして適度に働き、適度に遊ぶというライフスタイルとして積極的に選ばれていたという事実があります。




ネオリベラルな慣習(コンベンション)の解体


小泉政権は多くの人々に支持されました。とくに若者が支持したのは、他者と繋がりに患わせずに、個人のライフスタイルを重視する。そのために多くのことはお金で解決するというネオリベラルなライフスタイルを求めたということがあります。若者のわがままということではなく、生権力として行使され、「消極的な自由」を重視する社会環境によって規律訓練された結果でもあります。すなわちネオリベラルなライフスタイルが、現代社会における一つの慣習(コンベンション)であったということです。

しかしネオリベラルな活発な経済活動がアメリカの金融バブルに支えられていたことが明らかになり、いまパニックになっています。100年に1度の状況と言われるのは、人類が大量生産大量消費社会になって100年しかたっていないことを考えると、ことの重大さがわかります。だから本質的な問題は非正規雇用のみの問題ではなく、自由主義経済の継続的発展そのものが疑問視されていることです。

慣習(コンベンション)は権力関係の中で変化しますが、とくに自由主義による生権力の導入以降、その流動性は増しています。慣習(コンベンション)が疑問視されること、それは疑いえない現実(リアリティ)が疑われるという。そこに大きな抵抗が生まれます。
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