なぜブローデルは透明な市場を夢見るのか フェルナン・ブローデル 「交換のはたらき」 その1 

pikarrr2009-02-15


1)交換のはたらき 
2)ミステリー 資本主義
3)資本主義活動/経済生活/物質生活
4)交換の透明な形態
5)「商店」は「資本主義活動」の初期形態
6)資本主義活動と信用売買
7)ポランニーの共同体主義ブローデル個人主義
8)透明な貨幣交換と贈与交換のシミ
9)信用(贈与)関係から信用売買へ
10)資本主義という権力の増幅器





1)交換のはたらき 


「資本主義社会はどのようにはじまったのか」に興味があり、いくつか本を読んでいる。本テーマは歴史の大テーマでありいろいろと本が出ているが、その中でも、ブローデル「物質生活、経済、資本主義」は必須だろうと読み始めた。三部作で、日本版ではそれぞれが2冊に分かれて、各値段がすごい。とりあえず、がんばって2部の「交換のはたらき」2冊を購入した。まずは「交換のはたらき1」を読んだ感想と、独自の考察をしてみる。 

「物質文明・経済・資本主義―15-18世紀」 フェルナン・ブローデル

1−1 日常性の構造 ISBN:4622020513 ¥ 8,925
1−2 日常性の構造 ISBN:4622020521 ¥ 7,350
2−1 交換のはたらき ISBN:462202053X ¥ 7,665
2−2 交換のはたらき ISBN:4622020548  ¥ 7,665
3−1 世界時間 ISBN:4622020556  ¥ 8,925
3−2 世界時間 ISBN:4622020564  ¥ 8,400




2)ミステリー 資本主義


ボクが好きなミステリー作家に羊たちの沈黙トマス・ハリス「ボーンコレクター」ジェフリー・ディーヴァーがいる。彼らの特徴はその描写の緻密さだ。ジェフリー ディーヴァーのライム・リンカーンシリーズでは、事故によって半身不随の車椅子生活になった元鑑識官が、弟子の女性鑑識官に指示を出しながら難事件を解決していく。事件現場からチリにいたるまで徹底的に証拠を集めて分析し、その事実を積み上げながら、犯人にたどり着くという実証主義的な緻密さがおもしろい。トマス・ハリスの天才殺人鬼ハンニバル博士もまたその博識ぶりと見たものを動画記録のように記憶するという実証からの積み上げで結果を導き出す。

そしてブローデルの歴史分析もそこに通じるところがある。通常、歴史といえば英雄や大事件を紡いで組み立てられるが、ブローデルはその時代の小さな資料を積み上げ、そこから時代を浮き彫りにしていく。文章は平易であって読んでいてわかりやすくありつつ、緻密な事実から導かれる考察は推理小説のように面白い。そして、そこから浮かび上がってくるのは、いまの時代とかわらない人間達の姿である。

(カール・ポランニーのように)なるほど十九世紀の「大転換」についての議論の中にポトラッチやクラを持ち込むことを、禁じるものはない。しかし、ヴィクトリア女王の時代のイギリスにおける結婚のしきたりに関して、レヴィ=ストロースの血族関係に関する説明を援用するようなものなのである。実のところ、歴史の具体的な多様な現実に触れその上でそこから出発する試みが全くなされていなかったのである。・・・近年においては、社会学者と経済学者、今日では人類学者が、不幸にも、われわれを彼らのほとんど完全な歴史に対する無理解になれてしまった。彼らの仕事はそうすることでそれだけたやすくなったのである。

第二章 市場を前にした経済 P280 




3)資本主義活動/経済生活/物質生活


ブローデルは、社会を「交換のはたらき」として、3階建ての建物にたとえる。基底となる1階部分が自給自足の「物質生活」、2階が市・大市などの貨幣交換による市場。そして3階を証券・銀行などの資本主義。これだけではそれほど新しくないだろう。ブローデルの特徴は、2階の市場を重視することにある。市場は時代的、地域的な広がりを持つ豊かなものであると考える。


3階 資本主義活動  投機、権力・・・証券・銀行 
2階 経済生活     「自動調整」市場・・・市・大市
1階 物質生活     自給自足

理論的モデルと観察結果のこのつき合わせにおいて、私が始終気付いたのは、通常のそしてしばしば慣習的な(十八世紀では、自然のと呼ばれたであろう)交換経済と、より上位の、精緻をきわめた(十八世紀では、人工的なと呼ばれたであろう)経済との絶えざる対立であった。私は、この区分が明白に触知できるものであり、これらの相異なる階の間では、活動の担い手と人間・行動様式・心性が明らかに同じではないと信じている。

また市場経済の諸法則は、ある水準においては古典経済学が記述するとおりの姿で現われるが、より高度の領域・計算と投機の領域においては、自由競争というその特徴的な形態が見られるのがはるかに稀であることも。影の部分、逆光の部分、秘義に通じた者の活動の領域がそこからはじまるのであり、私は、それが資本主義という語によって理解しうるものの根底にあるのだと信じている。そして資本主義とは(交換の基礎を、たがいに求め合う需要におくのと同程度あるいはそれ以上に、力関係におく)権力の蓄積であり、避けられぬものか否かは別にして、他に多くあるのと同様な一つの社会的寄生物なのである。

まえがき P2-3



4)交換の透明な形態

「仲介者なしの」販売がほとんどを占める初歩的な市は、交換のもっとも直接的な、もっとも透明な形態であって、もっとも監視の眼を行きとどき、騙される危険が少ないのである。もっとも公正なと言ってよかろうか。・・・それは手から手へ・眼から眼への取引、つまり直接的交換なのである。売るものはその場で引き渡され、買った者は直ちに手渡され、その時点で支払いがすまされる。信用貸しはほとんど行われない。

・・・このきわめて古いタイプの交換は、すでに、ポンペイ、オスティア、ローマ帝国植民地ティムガードにおいて、そして、それよりさらに何世紀も何千年も前から行われていた。

第一章 交換の道具 P13-14

大市と市が交換をよみがえらせ活性化させるのに力がある。西洋において都市が農村を圧倒した過程は、都市において市が再び活動が始めたことを推定させる。そして市は、それが単独で、例外なしに村落地帯を服従させることを可能にした手段だったのである。「工業製品の」価格は上昇し、農産物の価格は下落する。このようにして都市が勝利するのである。

第一章 交換の道具 P154-157

ここでいう「交換の透明な形態」マルクスが商品交換の原初的な場面を「命がけの飛躍」と呼んだことにつながるだろう。「一瞬」で等価交換におこなわれ、決して負債は残さない。対等な交換である。そして「慣習的な、自然の交換経済」と呼ぶとき、ひとの生存に根ざした人の自然な状態として見ている。

そしてブローデルにおいては、市場経済を経済学が考える需要と供給の自動調整が働く自然なものとしておくことで、その下部である「物質生活」と上部である「資本主義活動」がその相対的なかたちで現れることになる。




5)「商店」「資本主義活動」の初期形態


ブローデル「資本主義活動」の初期の形態を「商店」にみる。流動的な市から固定的な商店によってかわったこと、「長い開店時間、広告、値切りの可能性、世間話の楽しみ」で示すことは、市における「一瞬」の交換から交換関係は時間的に引き延ばされて、長期的な「信用関係」へ移行するのである。

いたるところで、供給の異常な増大、交換の加速(市と大市がそれを証明している)、経済の全般的発展と無関係ではない「第三次部門」の勝利(商店の固定した場所での営業とサービスの発展がそのあらわれである)があったのである。

販売地点の固定していること、長い開店時間、広告、値切りの可能性、世間話の楽しみが商店に有利に作用したと思われる。店に入るのは買物ばかりでなく談論するためでもある。それは小型の劇場である。

・・・商店の躍進の最大の理由は「信用売買」であった。商店より上の段階で卸売商人は信用売りを行っていたので、小売り商人は今日われわれが手形を呼ぶものに対する支払いをしなければならない。

商人は小型の資本家の立場にあり、彼に借りがある人々と彼が借りがある人々の中間で生きている。それは危なっかしい平衡状態で、絶えず転倒の危険にさらされている。・・・彼は信用貸しの連鎖が商業の基本であり、借金はたがいに相殺され、このことから商業活動と商業収入の倍加が生じることを長々と説いている。

第一章 交換の道具 P69−72




6)資本主義活動と信用売買


商店において長期的な「信用関係」から「信用売買」へと転換する。そして為替手形などによって制度化され、銀行、証券市場が生まれてくる。ブローデルはこれら金利を生む投機の世界を「資本主義活動」とよび、経済活動(マーケット)に対してアンチ・マーケットとして「対立」の構造を浮き彫りにする。

対立関係とは、資本主義活動は自然な「自動調整」が働くような市場ではなく、権力の場であるからだ。証券取引の量・流動性・公開性・投機の自由などシステム化されていくが、資本を多く持つ者と持たざる者は決して自由で平等な関係ではなく、資本の力によって場を操作し、さらに資本を吸い上げて、格差を広げていった。

十七世紀初頭における革新、それはアムステルダムにおける証券市場の成立である。公債、東インド会社の名声の高い株券は、現代とまったく同様の活発な投機の対象となった。それが、しばしば言われるように、最初の証券取引所であったというのは、完全に正確なわけではない。国債証書は、ヴェネツィアでひじょうに早くから、フィレンツェでは一三二八年以前に取引の対象になっていた。

・・・ずっと以前から、仲買人たちが取引所の仕事に手を出して財を成していくのに対し、商人たちは自分たちが貧乏になる一方だとこぼしていた。あらゆる商業中心地、マルセイユでもロンドンでも、法令によってあまり手を縛られていない仲買人たちは、商人たちに対して勝手気ままに振舞っていたのである。

しかしアムステルダムの証券取引における思惑は、精妙をきわめ、現実離れをした段階に到達しており、それが長い間アムステルダムをヨーロッパにおける例外的な市場とすることになる。そこでは株価の上昇または下落に賭けて株を売買するだけでは満足せず、手の込んだからくりよって現金も株券も手にしていなくても投機に加わることができるようになっていた。仲買人たちはこの点を最大限に活用する。彼らは複数の陣営に分かれた。一方が上げに賭ければ、他方「対抗者たち」の陣営は下げに賭けるであろう。動揺しやすい、まだ心を決めかねている投機家の大群をどちらの側に引き寄せるかが勝負なのである。

・・・取引所が小金をためこんだ者たちや零細な賭け事好きの懐からも金を汲み上げるやり方を示しているのである。このやり口が成功しうるのは次の理由による。第一に、繰り返して言うが、相場の変動を誰でも容易に追うことのできるような株価の公示はまだ行われていない、第二に、この場合、仲買人が商人と仲買人だけが立ち入ることを許される取引所の聖域に、・・・立ち入る権利を持たない零細な人々を相手にしているからである。

第一章 交換の道具 P110-114

いかにして啓蒙の世紀は走行に移り疾駆さえしたのであろうか。運動が、一七二〇年を越えると、経済の階層制のすべての階において認められるのはたしかである。しかし、もっとも重要なことは、既存のシステムに亀裂が入り、それがますます大きく広がっていくことである。かつてなかったほど、市(マーケット)に対抗してアンチ・マーケットが力を発揮する。大市に対抗して倉庫と中継倉庫業がふくれ上がっていく。大市は初歩的な交換の段階へ再び回帰する傾向を見せている。同様に取引所に対抗して銀行が台頭する。

それは経済生活の上部構造と下部構造の間のはっきりとは見えないが絶え間ないゲームの内にわれわれを立ち戻らせるのである。・・・西洋の発展の二つの基本的特徴は、上部構造の確立と、ついて十八世紀における経路と手段の増大である。

第一章 交換の道具 P154-157




7)ポランニーの共同体主義ブローデル個人主義


ブローデルによると、「物質生活」市場経済との相対的なかたちで現れる。それが明確になるのがカール・ポランニーへの反論である。

カール・ポランニーと彼の弟子たちおよび彼に史実な支持者たちは、・・・経済は社会生活の「部分集合」でしかなく、社会生活の網目の拘束のなかにとり込まれていて、これらの多くの絆から時代が下がってからしか脱け出せなかった。ポランニーの言うことを信ずることにすれば、「大転換」が生じ、「自動調整」市場がその真の力を増し、それまで支配的であった社会的なものを征服するためには、十九世紀を、資本主義の完全な爆発的発展を待たなければならないことにさえなるであろう。この転換以前には、いわば飼いならされた市場、見かけだけの市場あるいは非−市場しか存在しなかったということである。

いわゆる「経済的」な運動に属しない交換の例として、ポランニーは「相互性(互酬性)」を前提として行われる儀礼的交換、あるいは原始国家における生産物を没収した上での財物の「再配分」、あるいは「交易港」すなわち商人が支配しない無色の交換の場を引く。・・・十九世紀以前において、自動調整機能を持つ「真の」市場の出現を否定するためのもっとも重要な論拠である価格の統制は、いつも時代にも存在したし、今日もなお存在している。

私の考えでは、歴史的に見て、一定の地帯の市場間において、それが異なった法制・主権を横断して起こるだけにとりわけ特徴的である、価格の変動をその一致した動きが見られる時にはいつでも市場経済が存在すると考えなければならない。この意味では、全歴史を通じて、・・・自動調整機能を持つ市場を経験した世紀であるという十九・二十世紀よりはるか以前に、市場経済は存在した。古代からすでに、価格は変動している。十三世紀には、価格はすでにヨーロッパ全域で一致して変動している。

これだけのことを言っておいた上で、私は、自由競争に近いこの市場経済が経済全体をおおっていたなどと反対に主張するつもりはない。・・・市場経済の部分的性格は、実際、自給自足部門の大きさまたは生産の一部を商業流通から取り上げる国家権力に、あるいは価格の形成に多種多様な方法で人為的に介入することができる貨幣の力量そのものに同程度あるいはより多く帰することができる。市場経済は、したがって、後進経済においても極めて先進的な経済においても、下部からあるいは上部から浸食されることがありうるのである。

確実なこと、それは、ポランニーが好んで口にする非−市場の傍らに、昔から、つねに純粋に利潤追求を目的とする交換がいかに小規模ではあれ存在したということである。小規模であるとは言え、ひじょうに古くから一つの村あるいは数箇の村の枠内で市は存在した。


第二章 市場を前にした経済 P278-282

ポランニーはモースの未開社会の交換の分析で有名になった「贈与交換(互酬性)」を重視しつつ、社会の交換の歴史を、「贈与交換(互酬性)」「再配分」「貨幣等価交換」によって説明する。

交換とは個体間に発生するものである。だからまず個体が明確でなければならない。しかし共同体としての繋がりがつよい未開社会などでは、個体は集団の中に埋め込まれている。相手に贈与されそのお返しに返礼するという贈与交換は曖昧な個体の集団の中で行われ、経済活動という以上に長期的な助け合い(信用)関係という社会性が強いと言えるだろう。

そのためにポランニーは産業革命によって市場経済が全面化するまで、贈与交換が長く社会の基盤であったと考える。そしてここで市場経済を人類の太古からの自然な形態であるというブローデルの考えと対立する。ポランニーが共同体主義的であるとすれば、ブローデル個人主義的である。

そしてブローデルが最下層に自給自足による物質生活をすえるのは、共同体内であっても個体の自立があることを強調するためだろう。なぜなら個体の自立がなければ、所有意識を元にする、貨幣交換は成立せず、贈与関係に絡め取られてしまう。




8)透明な貨幣交換と贈与交換のシミ


ブローデルが市、大市などで示した貨幣商品−等価交換は、それほど「透明」だろうか。ここにブローデル形而上学が見いだせる。この透明性を汚すもの、それは負債である。

ブローデルが商店の特徴として示した「値切りの可能性、世間話の楽しみ」は、市などにおいても一般的に見いだすことができる。オマケすることで商人に対して客は小さな負債を残す。そしてその客は次の市でも同じ商人から購入など、透明な交換は贈与/負債という小さな「シミ」によって汚される。

すなわちブローデル「資本主義活動」の初期の形態として「商店」にみた「シミ」は、すでに市において見いだされる。なぜならこの「シミ」は貨幣商品−等価交換そのものに絶えずこびりついてくるものだからだ。

これは、マルクスが商品交換の原初的な場面を「命がけの飛躍」と呼んだものにもつながる。交換において人は命を賭けずに済むように、小さな担保をかける。それが貨幣交換の透明性を汚す「信用関係」という小さな「シミ」である。

ポランニーが示した「贈与交換(互酬性)」の根深さがここに表れる。ブローデルがいうように貨幣交換がポンペイ、オスティア、ローマ帝国植民地ティムガードにおいて、そして、それよりさらに何世紀も何千年も前から行われていた」としても、そこにはいつも「贈与交換(互酬性)」のシミついていたはずだ。




9)信用(贈与)関係から信用売買へ


2階市場経済と3階の資本主義の間にも同様な傾向が見出すことができるだろう。商店と常連というような担保なしに信用関係で貸し借りしていた関係では、貸す者にはその場で支払われないことで返ってこないかもしれないという負債を負うことになる。この負債は常連でありまた買いに来てくれるという返礼によって返される。これは保証を求めない贈与関係といえる。

それに対して、担保ありの信用売買に転換することで、返ってこないかもしれないという負債に対して金利などの担保を要求する。ここで贈与関係は、擬似的な貨幣等価交換に転換されている。ここで負債はリスクであり、担保はリターンである。

資本主義の「信用売買」の制度とは、貨幣交換にこびりついたシミ(贈与交換)を擬似的な等価交換として数量化し、制度化したものである。




10)資本主義という権力の増幅器


「贈与交換」の浸食の強力さはこれだけでは収まらない。贈与関係の負債が擬似的な等価交換「信用売買」の担保(金利)として回収されることで、そこには再度、「命がけの飛躍」が現れる。そしてまた命を賭けずに済むように「贈与関係」が現れる。

投機が「命がけの飛躍」、すなわちリスクとして現れるとき、証券市場における仲買人たちの協力関係や、有数な資本家たちが相場を操作するなど、強者たちは弱者を排除し、助け合いの信用関係(贈与関係)を作り出す。ブローデルはそれを「思惑」と呼んだ。これはまさに強者であることの権力関係であり、そこに強者と弱者たちというそれぞれの「共同体」間の格差として固定化される。

すなわち「贈与関係」の力学は強力であり3階建てを貫通して働く。それは社会の無意識であり、交換の場に絶えず取り付いている。。しかし特に3階の「資本主義」では資本という貨幣交換の増幅器によって決定的な力へと増幅される。マルクスにしろ、ポランニーにしろ、ブローデルにしろ、「資本主義活動」に決定的な契機があったということに相異はないだろう。