なぜ「自然は真空を嫌う」ように社会は等価交換を嫌うのか その3 等価交換嫌悪論

pikarrr2009-03-29


pikarrr
人はなぜ合理的ではないのか。

考える名無しさん
コミュニケーションは必ず失敗するからでしょう。コミュニケーションは不可能である事を人間に知らしめる。人間は動物である以上、認識し得ないものが最低一つはある。それは、今行動し・存在する「私」である。これを無意識と言っても良いが、無意識と言うと、それを見出し、発見したかの様な錯覚に陥る。

しかし、見出したものを見出している自分がいる事を分らない。つまり、「私」と言われるものは、常に私の背後に隠れている。この事は鏡像段階によっても、すり抜けてしまう。

全くのアナロジーとして、ラッセルのクラス理論がある。世界の物を範疇別に括る時、そのグループ名はそのグループに入るのかどうか?入らないメタレヴェルであるならば(通常はそう思う)、そのメタレヴェルはどう言う体系の位置付けにあるのかと言う問題に遭遇する。そう言う風にしてラッセルはこの矛盾を解決したと考えているが、実は、このメタレヴェルは無限に後退せざるを得ない。鏡の私の顔を見る「私」、この「私」を見る<私>、この「私」を見る<私>を見る『私』・・・・・・

この問題は最終的には鏡を割る事で終息するが、ハイデガーは現存在の存在にこの終息を忍び込ませて、空無としている。空無は現存在の存在の核ではあるが、それが何かとは語れないものである。無限に後退するもの=鏡を見る私は定立できない。

これを超えるには無を持ち出すしかないのだね。実無限と可能無限数学論である集合論も同じ問題を孕んでいる。柄谷の中心があって中心がないと言う表現も類似性を持っている とう事でしょう。

そこで質問に対する答えの結論ですが、人間は合理性=ロジックの限界では認識不可能な「私」に直面し、ここで、動物性=恣意的な存在としての「私」に遭遇する。そして、合理的ではない私=欲望を見出す。

pikarrr
そうですね。自己言及のパラドクス。これがコミュニケーションの不可能性の原理ですね。コミュニケーションには「裂け目」が存在する。ウィトゲンシュタインクリプキ)はこれを「暗闇での跳躍」と呼んだ。

ここまでわかると、あとは理解しやすいでしょう。ようするに、交換もコミュニケーションであるということ。だからそこには自己言及のパラドクスが存在するということです。(等価)交換において、使用価値という質的に異なる商品を、いかに量的に等価とするのか。ここにはコミュニケーションの不可能性=「裂け目」存在する。マルクスはこれを「命がけの飛躍」と呼んだ。

ボクが、アリストテレス「自然は真空を嫌う」といったように、「社会は等価交換を嫌う」といったのもこのためです。等価交換には真空=裂け目が存在する。たから社会は「真空」を回避しようとする。これがすべての基本です。

考える名無しさん
贈与交換がないと、貨幣による交換が生まれないと言う事はないでしょうね。現に、貨幣による経済が打ち立てられている訳です。最初には贈与交換があって、そこから、共同体と共同体の交易が生まれるそこから、一般的な等価形態としての、貨幣が生まれる訳です。貨幣は、どの様な商品=物とも交換できると言う意味で、購買力の蓄積と言う意味を持っているのです。

つまり、柄谷はトランクリティークにおいて、貨幣の発生は共同体内に置いては生まれない、他の共同体=他者との交換に置いて生まれると言っています。この説が必ず正しいとは言えませんが、おそらく人と人とのよそよそしさを、つまり、物象性としての人と人の関係に置いて、初めて生まれると言う事でしょう。

だから、贈与交換から貨幣による交換へと時代が変わったと言う事でしょう。つまり、歴史的には贈与から貨幣へ進んだ訳で、共同体内の交換が先ずある。そこから、域外との交易によって、貨幣としての機能を持つ一般的等価形態が生まれる訳で、貨幣時代の今に贈与交換がその前提として共存しているなどとは柄谷も言ってはいない訳です。

piakrrr
(商品・貨幣)等価交換は共同体と共同体の間に生まれるというのは、マルクスの天才的な慧眼の一つです。

これは先の「等価交換の不可能性」から考えるとわかりやすいでしょう。「社会は等価交換を嫌う」。だから真空(裂け目)を埋めようとします。なにによって、社会的な信用によってです。たとえば現代なら家族の中では等価交換は嫌われる。

家族どうして、厳密な貨幣交換が行われるのは、冷たい、水くさい。欲しいなら上げる、貸し手あげる、贈与する。そして今度は逆の立場になれば、返礼してよ。これは、等価交換の真空(裂け目)が開き、人間関係がギスギスするのをさけて、信用によって埋めようとすることです。共同体の基本が贈与交換であるのは、仲間なのだからギスギスするのはやめるということです。

「社会は等価交換を嫌う」ために、長期的な信用関係によって贈与する。

pikarrr
それに対して、はじめてであった共同体と共同体の間はどうでしょうか。等価交換の真空(裂け目)を信用で埋めようとしても、信用がありません。それでも、交換する必要がある場合には、等価交換する努力をするしかない。

だからより正確にいえば、共同体と共同体の間の交換は、真空(裂け目)が開き、ギスギスした緊張を生み出す。再度言えば、使用価値という質的に異なる商品をいかに量的に等価とするのか。お互いに、多くの量を得たいと考え、交渉しますが、そこでは当然、権力、武力が持ち出されるでしょう。共同体と共同体の間の交換は、等価交換の前に、戦争、略奪なのです。強い者が多くをえるということです。

だから共同体と共同体の間に真に等価交換が成立するためには、その上位の国家による武力的な統治が必要なのです。

「社会は等価交換を嫌う」ために、国家に調停を求める。

pikarrr
現代は、貨幣等価交換によって経済活動が行われていると言われますが、「社会は等価交換を嫌う」ことが簡単に回避されるわけでありません。だから使用価値という質的に異なる商品をいかに量的に等価とするのか、という問題は残っています。

だから先の二つのテーゼはそのまま働いています。
「社会は等価交換を嫌う」ために、長期的な信用関係によって贈与する。
「社会は等価交換を嫌う」ために、国家に調停を求める。


貨幣等価交換は、信用関係による贈与と、国家の調停によって可能になっています。このうち、国家の調停というのはわかりやすいと思います。どのような貨幣交換にも、国家の治安が働いています。治安が悪くなれば、商品を略奪する、暴力的に不当交換(恐喝)することが蔓延ります。途上国ではよくある光景です。

貨幣等価交換に、信用関係による贈与が働いているというのは、わかりにくいかもしれません。経済学ではこれは否定され、価格は市場相場の交換価値として決定すると考えるからです。だから経済学は完全自由競争を求めるのです。完全自由競争によって、正しい価格(交換価値)が表れるからです。

pikarrr
しかし現実の市場が、不完全競争であることは、誰もが知っていることです。まずほとんどの製品は寡占企業によって占められ、市場には、価格に強い影響力をもつ強者がいます。より正確には、強者は暴力的な1者ではなく、一つの信用関係です。

たとえばパナソニックは家電のプライスリーダーですが、その位置はパナソニックに従う他の家電メーカー、下請け、産業界、そしてパナソニックブランドを持ちあげる消費者がいます。すなわち価格は単に、自由競争によって決定していません。

最近は、グローバル化が進み、大型テレビのように、日本の寡占メーカーの価格調整ができずに、韓国などが海外メーカーの安値攻勢に押されています。しかし携帯電話など、まだまだ寡占によって価格が調整されているものが多くあります。

それでも一般的な消費財というのは、競争市場の影響は大きく働いているといえます。これは、消費者と労働者が同じであり連動しているからです。商品価格が下がれば、投入労働量(労働者数を減らせば)よいわけです。そのようにして、経済活動を活性化することで、経済を成長するわけです。

実は、より寡占であるのは、資本交換です。多額の資本の移動が、経済を動かしていますが、誰に貸し出すか、というのは、まさに信用関係です。ここでは、商品価格よりももっと強く、銀行と大企業のような、強者の優遇が働いています。

これらに働いているのは、「社会は等価交換を嫌う」。誰もが真空(裂け目)が開くことが怖いのです。だから強者と助けあいの信頼関係(贈与交換)を結んで乗り切ろうとするのです。

pikarrr
共同体内→贈与交換、共同体と共同体の間→貨幣交換。となるわけですが、実際には、共同体と共同体の間とは都市です。都市は、いろいろな共同体から人々が集まり、毎日初めて出会う。そこには共同体内のような信用関係はない。だから交換は貨幣交換を行う。

現代は、人々の流動性が高まり、社会全体が都市化しているのです。隣に住んでいる人も知らない。そこでは頼りになるのは信用ではなく、貨幣です。より正確へは貨幣への信用。貨幣を持つことで、生存することができる商品経済への信用です。

日本は、封建社会の時から人、物の流動性が高く、都市化が進んでいました。だから貨幣経済が発達していました。世界でも有数な発展した地域でした。

pikarrr
再度、最初の、「人はなぜ合理的ではないのか。」に戻ると、ボクの「等価交換嫌悪論」によると、私=欲望という解は解の一つでしかない、ということがわかるでしょう。

等価交換はリスクとチャンスを開く
リスク管理のもと、チャンスへの健全なインセンティブを開く→平等、経済成長
・等価交換嫌悪という狂気へ没入する→過剰消費(欲望)、経済成長
・等価交換嫌悪は信用(贈与交換)を呼び込むみ
 信用は強い者の論理にただ従う→合理化
 信用は強い者へすり寄る。→格差社会
 市場は信用不安のような不安定性をもつ。→不況。



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