なぜ「おくりびと」の儀礼に涙が溢れるのか 映画「おくりびと」

pikarrr2009-03-31

「終わり」から始まる物語


映画おくりびとASIN:B001Q2HNOW) http://www.okuribito.jp/をDVD鑑賞。アカデミー賞受賞で話題だが、受賞作というのは往々にして見てみるとつまらないことが多いので、期待していなかったが、ひさしぶりに号泣してしまった。

この映画を見て感じたこと。ボクたちは「始まりと終わりの世界」に生きているんだな、ということだ。死は「終わり」である。いってしまえば、死んだら終わりなのだから、さっさと火葬し、生きている人は明日にむかって生きればよい。

だからこの納棺師の映画は、「終わり」から始まる物語である。終わった「死体」にむかって、時間をかけて礼儀をつくし、お送りするのである。なぜならそれは「死体」ではなく、「死者」であるからだ。

その人が生前与えてくれてことを慈しむ。与えてくれたことへお礼を言い、返礼をする。贈与返礼は交換であるが決してプラスマイナスゼロ(等価)に閉じることはない。お礼を言ったそれで終わりということではなく、たえず終わらない「残余」がのこり、そして贈与返礼は閉じずに反復される。

そして納棺師が「死者」に対して行う儀礼の間は、「始まりと終わり」に閉じることを妨げ、遺族に対してあらためて終わらせることができない想いへと対面させる。





動物化スノビズムの果てで


ヘーゲル研究の哲学者コジェーブは、戦後のアメリカの消費社会に触れて、人々が商品に囲まれて充足する姿から、ヘーゲル「歴史の終わり」を連想し、人の姿を「動物」とよんだ。これは豊かな貨幣商品交換社会である。購入し消費する。そしてまた購入し消費する。この効率的な反復が経済成長を支え、物質的な豊かさを維持する。それは「始まりと終わりの世界」である。そこでは「残余」は非効率なものでしかない。

消費者の「ニーズ」をそのまま満たす商品に囲まれ、またメディアが要求するままにモードが変わっていく戦後のアメリカの消費社会は、彼(コジェーブ)の用語では、人間的というようむしろ「動物的」と呼ばれることになる。そこには飢えも争いもないが、かわりに哲学もない。「歴史の終わりのあと、人間は彼らの記念碑や橋やトンネルを建設するとしても、それは鳥が巣を作り蜘蛛が蜘蛛の巣を張るようなものであり、蛙や蝉のようにコンサートを開き、子供の動物が遊ぶように遊び、大人の獣がするように性欲を発散するようなものであろう」と、コジェーブは苛立たしげに記している。

動物化するポストモダン―オタクから見た日本社会」 東浩紀 (ISBN:4061495755) 2001 

またコジェーブは、日本滞在に、もう一つの「歴史の終わり」の生き方を発見する。豊かな環境に充足するのではなく、あえてそこに否定の契機を見出し、形式的な対立を楽しむスノビズムな生き方である。それは昔から日本人が儀礼を洗練させてきた様式である。

「歴史の終わり」では人は動物化するか、スノビズムにいきるかしかないだろう。というのが、コジェーブの結論であった。東浩紀らが指摘するように現代においてコジェーブの指摘は多くにおいて当たっている。

しかし本来、儀礼「歴史の終わり」の生きるために考えられた方法論などではないし、あえて否定の契機を見出すものではない。儀礼は贈与/返礼から生まれる。贈与交換は残余を残し続け終わらない反復を生み出す。それが社会的なつながりとなる。たとえばいまの日本でも、区切りには贈り物をする。お賽銭、年賀状、お歳暮、お中元・・・これらの儀礼的な反復は、「終わらない」残余(ハウ)を呼び込むことで繋がりが継続していることを確かめる。




儀礼はつながりを現前化する


経済学者が自由競争に倫理を求めるとき、そこで忘れられているのは人が豊かになるための方法は物質的な豊かさのみではないということだ。人とのつながりは物質的な手触りのような現前の確かさがなく不安になる。そのために儀礼はある。見えないつながりを現前化し、確かめるための方法である。

とはいっても、確かに現代人は消費社会=「始まりと終わりの世界」を生きている。多くの儀礼は風化しつつある。しかしそこにはたえず閉じることができない想いが抑圧されている。

儀礼は形式化であり、形骸化することもあるが、究極の「終わり」である「死」に対面するとき、決して終われない、つながりは継続することが回帰する。納棺師の美しい儀礼は、抑圧した残余(ハウ)を想い出させて涙があふれさせるのだろう。

しかしこの映画が「動物」の国で認められたというのは不思議な感じがする。

マリオ族の法律家の言説を十分に理解するためには、つぎのように言えばたりる。『タオンガや厳密な意味での一切の所持品は一つのハウ、一つの霊的力をもっている。わたくしはあなたからタオンガを貰い、わたくしはそれを第三者に贈る。その第三者はわたくしに別のタオンガを返してくれる。彼はわたくしの贈り物のハウによってそうすることを刺激されるからである。また、わたくし自身もあなたにその物を贈ることを義務づけられている。なぜなら、わたしくは、実際、あなたのタオンガのハウの所産であるものをあなたにお返しする義務があるからだ。』

以上のように解すれば、意味が明確になるばかりでなく、それはマオリ族慣習の主要観念の一つとして現れてくる。貰ったり、交換された贈り物に付着する義務は、貰った物は生命なきものではないということである。贈与者の手を離れた場合ですら、その物はなお彼の一部を構成するのである。

ハウは、最初の受贈者、あるいはときには第三者を追求するばかりでなく、更に、タオンガを単に引き渡されたにすぎない一切の者を追求するのである。要するに、ハウはその古巣、森や氏族の聖所やその所有者のもとへ帰りたがる。P42-43


「贈与論」 マルセル・モース (ISBN:4326602120) 1925