ネット上の革命はすでにはじまっている?

pikarrr2009-05-14

ネット上に新たな経済活動は起こらなかった


ネットが一般に普及して10年以上たったが、かつて「グローバルビレッジに代表されるような期待された「革命」は起こらなかったようだ。この理由の一番は、ネット上に新たな経済活動が起こらなかったためではないだろうか。

確かにネットの普及によって、企業活動は迅速に活発になった。またネット上に新たなビジネスも生まれた。しかしこれらは従来の資本主義経済の延長上のものであって、下部構造としての経済活動そのものはかわることはなかった。

多くの人々はかわらず企業へ労働力を売ることで賃金を稼ぐ。ネットはこれとは別に社会関係を楽しむ娯楽である。すなわちネットは新たな経済構造生み出すことなく、社会的な関係を充実されるつながりのツールでしかない。




ネット上の社会関係のために実社会で働く


ネット上では掲示板やブログなど長時間かけた活動が行われているが、そこでおこなわれる労力はほぼ無償で、あくまで個人的につながりを楽しむためのものである。だから生活のための有償労働はこれとは別に行われる。

このためにネット上の無償労働がふえるほど生活のための有償労働時間を圧迫しさえしている。さらにいえばネット住人にとって、実社会での有償労働はあくまでお金を稼ぐためであり、ネット上の無償労働の方が自らの社会性、すなわちアイデンティティに深く根ざし重視される、というように目的の転倒さえおこっている。

特に日本では「仕事人間」と呼ばれたように、企業での労働は単なる賃金獲得の手段ではなく、それ以上の労働を企業へ捧げ、みずからの社会的な関係やアイデンティティも見出していた。

ただもはや企業と労働者のこのような「幸福な関係」は解体しつつある。このために人々がネットへ社会関係をもとめる理由として、このような企業内社会関係の解体の影響があるだろう。しかしその逆もいえるだろう。ネットの登場によって企業内の社会関係のようないままでの社会関係が代替されつつあると。




ネット住人は「プロシューマー(生産消費者)」


アルビン・トフラー「富の未来」ASIN:4062134527)において、ボランティア、趣味で畑仕事、日曜大工をする人、最近では、ネットの群衆知など、DIY(Do It Yourself)型で自分で自分のために労働する人々を「プロシューマー(生産消費者)」と呼んだ。

そして今後、資本主義から社会主義へ移行するということではなく、情報社会によって「非金銭経済での活動が金銭経済に与える影響は、ますます大きくなっていく。」という。「金銭を使わないまま、多数の必要や欲求を満たしている。この二つの経済、金銭経済と非金銭経済を組み合わせたものが、「富の体制」である。(トフラー)」

はたして労働の企業内有償からネット上の無償労働重視への移行は、トフラーのいうような新たな「富の体制」へのシフトなのだろうか。ボクのイメージでは、ネット上の無償労働の蓄積はGoogleなどの検索技術によって非常に生産的な蓄積とはなっているが、ネット上の無償労働を非金銭経済と呼ぶことは、あまりに「生産的」すぎるように思う。ネット上の無償労働を非金銭経済と呼ぶことは、国民総生産、経済成長率などの経済学的経済概念にしばられているのではないだろうか。




金銭経済中心社会から社会関係中心社会へ?


たとえば経済学的経済では浪費的であっても消費することが経済成長には有用である。そして消費することそのものが経済を活性化し所得をふやし、また消費を想起することで好況が目指される。 トフラーが「富の体制」というとき、非金銭経済はまた金銭経済を活性化する一部である。

それに対してネット住人は実社会での最小限の実労働で貨幣をかせぎ、多くの時間をネット上の無償労働に割いて充足する。当然消費は控えられる。それはお金がないということとともに、いままでの自己充実的な消尽消費は必要とされない。これでは従来のような経済学指標では低経済成長となるだろう。

この状態をどのように考えるべきだろうか。新自由主義ネオリベラル)、金融資本主義、グローバリズム、BRICsの台頭、格差社会、派遣切りなど、産業革命でテイクオフした資本主義の一人勝ちでまさに経済中心社会の様相であるが、その裏でネット上で金銭ではなく人々の「関心」、つながりなどの社会関係を重視する社会が台頭している。

トフラーのいう非金銭経済という経済的なシフトよりも、もっと大きなパラダイムが起こっているといえないだろうか。それは、金銭経済中心社会から社会関係中心社会へのシフトである。




革命はすでにはじまっている?


そもそも金銭経済中心社会の歴史はそれほど古くない。アーレント「人間の条件」ISBN:4480081569)の中で、近代において人間の活動のうち生産性にもとづく「労働」が重視されるようになったことを指摘する。「古代の理論では、労働が軽蔑され、近代の理論では労働が賛美された。そして一方は、労働者の苦痛の多い努力に不信を抱き、他方は、労働者の生産性を賛美している。(アーレント)」アダム・スミスマルクスも、非生産的労働は寄生的なものであり世界を富ませないから、この非生産的労働という名称にはまったく価値がないと軽蔑した、という。*1

アーレントのいう古代ギリシャ市民の「労働」蔑視は奴隷制度によって支えられて可能であったといわれるように、現代のネット上で無償労働に長時間さける生活は、決して貧しい国では望めないだろう状況であるし、金銭経済を放棄しては成立しない。日本のような豊かな経済活動に支えられていることは否めない。

日本の不景気は将来への不安から消費よりも貯蓄し内需がのびないと言われるが、ほんとうにそれだけだろうか。もはや無理に消費などしなくてもネットでの無償労働で充足してしまえるためではないか。革命はすでにはじまっている?