なぜマクドナルドはくつろげるのか マクドナルド型規律訓練権力 その1
ジョージ・リッツアは著書「マクドナルド化する社会」(ISBN:4657994131)において、マクドナルドの諸原理が世界中を席巻しているといった。「マクドナルド化」は、効率性・予測可能性・計算可能性といった合理化過程が生産現場から消費者とのサービスの場にも波及し、消費者の期待や行動もまた画一化、脱人間、非人格化しているという。
このためにマクドナルドでは「客は従順な家畜のように食事する」といわれ、フォーディズムの延長で捉えられる。しかしはたしてそうだろうか。現代の消費者のようなわがままな人々をこうも簡単に家畜のように従順にするには、いかなる魔法があるのだろうか。
サービスの運動性
社会は豊かになり、消費者は商品として使用価値を求めることから、「サービス」を求めるようになった。サービスとは「売り買いした後にモノが残らず、効用や満足などを提供する、形のない財のことである」とされる。しかし使用価値にくらべて、効用や満足はどのようなものか捉えられない。なぜならサービスにはこれだというようなものではなく、状況(コンテクスト)によって絶えず変化するからだ。だからサービスとは絶えず追い求める「運動」だといえる。
そしてこのようなサービスの運動性は、従来の生産者から消費者へ商品を提供するという静的な構造を解体する。生産者が消費者を巻き込んで作り出す、あるいは生産者の狙ったものを越えて消費者によって生み出されている。
このように生産と消費の境界が解体し、消費者にも生産・創造が解放される状況を保守派は「知識社会」と呼ぶ。そしてそのような消費社会をトフラーは「生産−消費者(プロシューマー)」と呼んだ。
それに対して、左派は「ポストフォーディズム」と呼ぶ。フォーディズム的な生産と消費の境界は解体され、生産者と消費者、生産現場と生活場、労働時間と非労働時間、金銭経済と非金銭経済の境界が曖昧になり、生産が生活に深く侵入し、人々は生産現場から離れた日常でも自主的に学習し創造することが求められる。
「セルフサービス」秩序空間
マクドナルドでは、客は自ら食事を受け取り、席に運び、食後にゴミを捨てるというセルフサービスを取り入れている。これによって人件費が抑えられて消費者は安価で食事することができる。
しかし客がセルフサービスしているのは食事の運搬だけではない。狭い部屋につめられた座席で「組み立てられた」食事をする。これは家畜のようと食事すると言われても仕方がないかもしれないが、不思議なことにみなどこかくつろいでいる。この秩序は決してマクドナルド側が「店内では静かにしなさい」というように規律訓練したわけではないし、かといってマクドナルドには人々を思考停止させる装置があるわけではない。
このような店内の秩序もまた、客たちが「セルフサービス」で作り上げているのだ。たとえば電車の中で人々は好き勝手にしているようであるが、「儀礼的無関心 civil inattention / civil indifference」という規律によって高度に秩序化された空間を作り上げていると言われる。同様なことがマクドナルドではより積極的に起こっている。
マクドナルドの店内は清潔であるが、椅子やテーブルなど内装は快適を追求したというようなものではなく、素っ気がない。マクドナルドの店員の接客も丁寧ではあるが機械的でよそよそしい。いわば公園や駅などに似ていないだろうか。ゆったりくつろげるプライベートな空間を演出するのではなく、「公共的な空間」を演出しているのだ。それによって人々には自主的(セルフサービス)に「儀礼的無関心」という秩序を作動する。食事の配膳のセルフサービスもそのための演出として作用しているといえる。
トフラーはセルフサービスを「生産消費者(プロシューマー)」の一例としてあげた。消費者は一部生産者として組みこまれることでサービスの「運動」に荷担している。このときマクドナルドは合理化が追求されたフォーディズムであるとともに、セルフでサービスを生産−消費するポストフォーディズムであるといえるだろう。
「グローバル公共空間」としてのマクドナルド
知らない街にいって一人で食事をするとき、マクドナルドやファミレスがあるとホッとする。流動性の高い社会では、その場その場の(プライベートな)空気にさらされ、適応することが求められるが、それは大きな負荷となる。
それに対してマクドナルドは世界中どこへいっても、「グローバルな公共空間」として機能し、よそ者、場違いな空気を生まず、無理な適用を強制しない。このようにプライベート性を解体し「公共性」を高める環境演出方法は、「街のほっとステーション」と言われ、コンビニやファミレスなど、現代のサービスの基本の一つになっている。
ここでいうグローバルとは、経済的なグローバリズムと深く関係する。「マクドナルドのある国はお互いに戦争しない(トーマス・フリードマン)」という。資本主義経済が安定して活動するためには国家治安、人的資本の向上などの社会秩序の一定の水準が求められる。「儀礼的無関心」というメタレベルの高度規律訓練権力によって「グローバルな公共空間」が成立し得るということが、その社会が安全な経済活動を行える水準を備えている目安となる。
全面化する「マクドナルド型規律訓練権力」
「客は従順な家畜のように食事している」とすれば、「動物化」しているわけではなく、メタレベルの高度な規律訓練権力を作動させているからだ。逆にいえば、清潔で過剰に私的な演出は排除された素っ気ない環境でありつつ、その空間作りにセルフサービスを求める「マクドナルド型規律訓練権力」は、現代の経済活動を重視した公共空間のあり方を示している。
たとえばアメリカの犯罪学者ジョージ・ケリングが考案した「割れ窓理論」がある。「建物の窓が壊れているのを放置すると、誰も注意を払っていないという象徴になり、やがて他の窓もまもなく全て壊される」という。現にニューヨークでこの理論を応用して街を清潔に保つことで治安が飛躍的に向上した。このような活動は日本の方が一般化しているだろう。5S活動(整理・整頓・清掃・清潔・躾)などの職場環境維持改善活動である。ここにも同様な規律権力が作動している。
マクドナルド型規律訓練権力はとても弱い権力である。たとえば喫煙を制約する場合、法律で規制するのでもないし、規範にしたがい注意するのでもないし、タバコの値段を上げるのでないし、テクノロジーの設計(アーキテクチャ)によって制約するのでもない。場の整備に参加させ、気づかせ、気まずくするだけだ。
しかしこの権力がいまのミクロレベルでの社会秩序を形成し、生活環境の細部まで整備するように、街の区画整理のような公共投資からショッピングセンターなどの民間投資まで多くの投資が行われている。そしてこの権力が人々に効力があるのは一つの倫理に基づいている。それは「比較優位」である。簡単にいえばみながそれぞれ経済活動に参加してこの豊かな社会を支えているということだ。
フーコーの三つの権力
ポストフォーディズムの言説においてフーコーの権力論が語られる場合には、規律訓練権力から生権力という移行で語られることが多いが、 フーコーは自由主義社会において権力は、主権、規律訓練権力、生権力が協約して働くと考えた。現実にもこられが分離して働くことはほとんどないだろう。
主権者の意図があり、生権力というマクロに社会が設計され、ミクロで規律訓練権力として働く。これらを権力者の意図が一直線働く単純な搾取構造ではない。それならばこのような複雑な構造は必要ないだろう。自由主義社会において重要なのはミクロレベルでの自由な経済活動を促進し、富を生み出すことである。
しかし自由な環境とはただ放置することではない。生権力によるマクロな環境設計とミクロな高次の規律訓練権力を必要とする。
人口が管理されようとしてたこのときほど、規律が重要なものとなり、価値あるものと見なされたこともありません。人口を管理するとは、単にさまざまな現象のなす集団的な集積物を管理するということでも、単に包括的結果の水準で管理するということでもない。人口を管理するということは、これを深く繊細に、細部にわたって管理するということでもあるのです。
したがって、統治を人口の統治として考えることは、主権の創設に関する問題をさらに先鋭化させるものであり、さまざまな規律を発展させる必要もさらに先鋭化されます。・・・というわけで、主権社会の代わりに規律社会が出てきたとか、規律社会の代わりに統治社会というようなものが登場したというふうに物事を理解してはならない。ここにあるのはじつは主権・規律・統治的管理という三角形なのです。主権的管理の標的は人口であり、主権的管理の本質的メカニズムは安全装置です。P131-132
「安全・領土・人口」 ミシェル・フーコー (ISBN:4480790470)
私が「自由主義的」という言葉を用いるのは、まず、ここに確立しつつある統治実践が、しかじかの自由を尊重したり、しかじかの自由を保障したりすることに甘んじるものではないからです。より根本的な言い方をするなら、この統治実践は自由を消費するものです。・・・自由を消費するということはつまり、自由を生産しなければならないことでもあります。自由を生産し、組織化しなければならないということ。したがって新たな統治術は、自由を運営するものとして自らを提示することになります。
・・・自由の生産と、自由を生産しながらもそれを制限し破壊するリスクをもつようなものとのあいだの、常に変化し常に動的な一つの関係が、そこに創設されるということです。・・・一方では自由を生産しなければなりません。しかし他方では、自由を生産するというこの身振りそのものが、制限、管理、強制、脅迫にもとづいた義務などが打ち立てられることを含意しているのです。
自由主義、それは絶えず自由を製造しようとするもの、自由を生み出し生産しようとするものなのです。そしてそこにはもちろん、自由の製造によって提起される制約の問題、コストの問題が伴うことになります。・・・自由製造のコストを計算するための原理は、・・・もちろん、安全(セキュリティ)と呼ばれるものです。・・・自由主義は、安全と自由の作用を運営することによって、個々人と集団とができる限り危険に晒されないようにしなければならないのです。
自由主義と自由主義的統治術の第二の帰結、それはもちろん、管理、制約、強制の手続きの途方もない拡張であり、これが自由の代償と自由の歯止めを構成することになります。私が十分に強調しておいたとおり、あの大いなる規律の技術、すなわち、個々人の行動様式をその最も細かい細部に至るまで毎日規則正しく引き受けるものとしての規律の技術が、発達し、急成長し、社会を貫いて拡散するのは、自由の時代と正確に同時代のことでした。経済的自由、私が述べたような意味での自由主義と、規律の諸技術とは、ここでもやはり完全に結びついているということです。P77-82
「生政治の誕生」 ミシェル・フーコー (ISBN:4480790489)