自由と平等へ根絶されない敵対関係の次元を導入する 闘技的自由主義の可能性

pikarrr2009-06-29

自由と平等の同根 「不確実性」


自由と平等は対立で語られる。「集団内の平等は個人の自由を疎外する。」民主主義を重視する左派と自由主義を重視する右派など、これらの軸によって政治的立場が決まる。ただ一方で、自由と平等は同じ根を持つ。それは「不確実性」である。

近代以前、封建社会などの階級によって人々が社会に埋め込まれていたが、この埋め込みを支えていたのは強制力による押さえつけではなく、固定された生活基盤がそこにあったからだ。

そこに変化をもたらしたのは都市化である。都市化は人々の流動性が向上させ、生活基盤を貨幣経済へとシフトさせた。そこで介入したのが「不確実性」である。どのように生活し、どのように稼ぎ、どこに住みというようなことが不確実になる。不確実であるということは自由でありそして危険であるということだが、また重要なことは不確実性の前では誰もが平等である。サイコロの出目の偶然性は誰にも平等であるということだ。ここでいう平等とは機会の平等である。

平等は左派によって原理主義的までに高められるが、これを実現するためにはマルクスがいうように下部構想=経済システムまで代えなければ達成されない。では共産主義が可能になる経済システムとはいかようなものか、ということが課題になる。

現代において、自由と平等の問題は、自由主義社会の中でいかに平等を確保するかということだ。機会の平等は当然として、自由競争によって生まれた富をいかに分配するか。また取り残された人々にいかにいかなる平等を確保するか。




社会基盤としての確実性


この自由主義における自由と平等を考える上で重要なことは、自由主義は存在しないということだ。社会の中で、不確実性が開かれ自由と平等が現れたとき、もともとあった封建的な社会からの「確実性」は残ったままだ。

ここでいう「確実性」とは、地理的、社会的に偏向した関係・情報である。たとえば血縁であったり、地方のつながりであったり、財閥などの関係であったり、地方における地理的な特権であったり、流動性が高まったとはいっても「確実性」に偏在しつづける。それは古くからかわらないということではなく、かわりつつも求められつづける。

なぜなら不確実性は危険であるからだ。人は自由で、また平等でありたいと思うが、その裏面にある危険に対して、「確実性」を担保にして身を守ろうとする。だから現代において、自由競争、平等というのは、社会のおもて面であるが、一部でしかない。

たとえば経済学が自由、機会の平等を前提にしてきたが、最近のトレンドとして情報の非対称性が研究されている。現実には情報が非対称である方が当たり前であり、この場合におこるモラルハザードなどのさまざまな問題が検討されはじめている。




「権力は必ず腐敗する」


このような経済活動の「確実性」を問題視して、自由を徹底するというのは、自由至上主義リバタリアン)であったり、社会主義では自由の徹底のあとに平等を再構築する。しかし現代の新自由主義しかり、経験的に言われているように、自由を徹底するほどに格差が広がるという事実である。それは不確実性が高まるほどに、裏面と「確実性」の価値が上がるためだろう。だから強者であるほど自由競争であることを望む。自由に浮かれた人々が無防備にカモネギ状態となるからだ。

だから自由と平等を考える場合には確実性を考慮する必要があるだろう。それは、自由至上主義リバタリアン)のように不確実性を徹底するということではなく、確実性は決して排除できないことを前提にするということだ。

なぜなら確実性は、自由主義という200年程度の歴史ではなく、人類史そのものに根ざして人々の生存を支えてきたからだ。いまの自由主義社会でも確実性を生活の基盤にしていることにはかわりがない。

安易に不確実性を徹底しようとすると、弱者のみが不確実性に晒され、強者が確実性を足場にするという格差が固定化してしまう。確実性を足場にするとは、自由と平等の腐敗である。政治の腐敗、共産主義社会における上層部の腐敗、今回の世界不況の元にある金融関係者の腐敗など、これらは例外的な間違った行為ではなく「権力は必ず腐敗する」という常態であると考える必要がある。




資本主義は階層を利用する


確実性を考慮して自由と平等を考えるとは、確実性が残ることを考慮に入れつつ、システムを検討するということだ。自由主義社会において具体的にいえば、自由競争に対して、メタレベルの競争を考慮するということである。誰もが平等に競争に参加しているわけではなく、確実性を担保にして競争に参加する、さらには競争ルールそのものへ介入するというメタレベルの競争が存在する。

いわば資本主義はそもそもこのような競争レベルとメタ競争レベルの階層を利用してきた面がある。競争レベルでは社会の封建的、社会的な確実性を解体し、自由競争を活性化し経済成長を促してきた。ここでは個人は自由と平等のもとに個別化され、効率化を求められた。

メタ競争レベルでは制度的枠組みの設計を通して、競争レベルを調整することで市場への資本投資を効果的に運営する。それは利益をあげるということであるとともに、効果的に有効な場所へ資本を配分するということであり、経済成長の促進でもある。

このような階層は資本主義だけでなく、いかなる社会システムでも存在するが、資本主義は経済成長という競争レベルとメタ競争レベルの成功が同じ方向をもちつつ、実際に豊かさが向上してきた故に生き残ってきた。




メタ競争レベルの「帝国」


問題はメタレベルの競争を見える様にし、競争レベルからの介入を可能にするか。現実にメタレベルがよく見える領域がある。それが国際問題対策である。国際世界では国家のメタレベルのシステムがない。国連は理念的にはメタレベルであるが実行力を伴わない。たとえば環境問題の国際会議が混迷し続けるのは、国家のメタレベルがないためである。それぞれの国の競争ではなく、ルールそのものを考えることになる、すなわちメタ競争レベルとは、単に競争の上位ということではなく、それ以上がない枠組みを検討する政治の領域である。

自由主義では格差は競争の源泉として許容される。さらに最近ではポストフォーディズムへ向かうことで、生産と消費の境界が解体されて、誰もが「企業」化して経済成長にむけて参加意識をもつことで、もはや「政治的なもの」が後退し、このような階層そのものが見えなくなっている。

それとともに、グローバル化する資本主義によりメタレベルの利益は莫大なものになって、格差は拡大している。そしてグローバル化するメタレベルの動きはより見えなくなっている。それを「帝国」と呼ぶのはいいすぎではないだろう。




闘技的自由主義


ここの自由と平等は、資本主義、あるいは社会主義という経済重視の「文化」がすでに先取りされている。文化的なものを考慮すればさらに難しい問題となるだろう。しかし「自由と平等」という考えそのものが、西洋中心の経済性と切り離せない。ここで示したのは、「闘技的自由主義(agonistic liberalism)」というようなものである。

セイフティーネットを否定しないが、競争レベル内での循環、貧しい者から取り立て貧しい者へ分配するという貧困の循環では解決にならない。メタ競争レベルを明らかにして、競争レベルからの介入を可能にする。そして階層間に流動性を持たせる。


自由民主主義」社会における権力関係の役割や敵対関係の現在的可能性を承認するモデルを論じよう」。「自由」民主主義的制度のねらいは,公共空間において合理的な合意を形成することではなく,正当なものとしてみなされる紛争の諸形態に表現の「自由」民主主義的経路を供給することである。これこそが,私が「政治的なるもの」と呼ぼうとするもの,いいかえれば,社会関係に内在する潜在的敵対関係,つまり多くの形態をとりうるし,決して絶対に根絶されることのない敵対関係の次元を認識する「自由」民主主義を構想するための道である。



参考

私が,民主主義政治の二つの既存モデル―価値共有的(aggregative)モデルと審議的(deliberative)モデル―に対して闘技的多元主義(agonistic pluralism)のモデル,つまり,社会における権力関係の役割や敵対関係の現在的可能性を承認するモデルを論じようとするのはこのためである。そのような観点からすれば,民主主義的制度のねらいは,公共空間において合理的な合意を形成することではなく,正当なものとしてみなされる紛争の諸形態に表現の民主主義的経路を供給することである。これこそが,私が「政治的なるもの」と呼ぼうとするもの,いいかえれば,社会関係に内在する潜在的敵対関係,つまり多くの形態をとりうるし,決して絶対に根絶されることのない敵対関係の次元を認識する民主主義を構想するための道である。この「政治的なるもの」という観念は,「政治的なるもの」が現存するがゆえにいつも紛争的であるようなコンテクストにおいては,言説,制度,そして実践の全体的調和に言及し,秩序を構築すること,人間的共存を組織することを目的とするいわゆる「政治(politics)」からは区別される必要がある。そのような観点からすれば,民主主義政治のねらいは,敵意を「飼いならす(domesticate)」こと,この潜在的敵対関係をアゴニズム」へと変化させることができるような諸制度を創造することである。そこにおいて,友/敵関係の代わりに,われわれは対抗者間の対決を見出すことになるであろう。


「闘技的公共空間に向けて」 シャンタル・ムフ http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/ss/sansharonshu/374pdf/kouryuu2.pdf


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*1:画像元 拾いもの